狩野孝信
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京都出身。幼名は宰相。織田信長の家臣・佐々成政の娘を妻に迎えたと伝え、彼女との間に3男(探幽・尚信・安信)を儲けたとされる。また妻の姉妹岳星院が関白鷹司信房に嫁ぎ、江戸幕府3代将軍徳川家光の正室(御台所)鷹司孝子を産んだため、孝子は義理の姪に当たる。長女は狩野信政、次女は神足高雲(常庵)と結婚、信政の息子狩野寿石と高雲の娘で久隅守景の妻国は孫に当たる(寿石は探幽の娘との間に生まれた曾孫とも)[1][2]。3人の息子については、狩野興以に教育を託したという[3]。
天正18年(1590年)の20歳の時、父が亡くなると兄と共に働いたが、兄も慶長13年(1608年)に亡くなると、遺児で甥の狩野貞信を当主に据えつつ事実上狩野派の中心となって活躍した。孝信は狩野派の支持層である武士階級のみならず、朝廷の後援を得て禁裏絵師となり、右近将監(従六位)に叙し絵所預に任じられた[4]。慶長18年(1613年)の内裏造営では総帥として活躍し(背景に相婿の信房との姻戚関係があったとも)、この時描いた現存最古の「賢聖障子」等は現在仁和寺に伝わっており、孝信の基準作とされる。ただし障子の貼り付けは翌慶長19年(1614年)である[5][6][7]。
この時期は政権が豊臣氏から徳川氏に移ろうとする過渡期に当たっていた。孝信あるいはその周辺の人物は、狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身があたり、大坂の豊臣氏には縁故の深い門人の狩野山楽や狩野内膳を配置、江戸の徳川氏には叔父の狩野長信、宗家の貞信と自身の長男探幽を江戸幕府へ売り込むという三方面作戦をとり、権力がどこに移っても狩野派が生き残るよう万全を期した。これは光信の代から行なわれていた処世術で、孝信は光信亡き後は貞信を支えつつ自らも徳川家康に接近、『唐船図腰屏風』を描いたとされる[4][8]。一方で豊臣氏関係の作品も描いたとされ、高台院と神龍院梵舜の注文で『豊国祭礼図屏風』を描き、慶長17年(1612年)に屏風は豊国神社「下陣」に公開されたという。原本は存在しないが、天明3年(1783年)に写された模本がメクリ10枚で妙法院に保管されている[9]。
元和4年(1618年)、48歳で没す。長男探幽は独立して別家を立てており、次男の尚信が家督を継いだ。末子安信は元和9年(1623年)に貞信亡き後の宗家を継承した[10]。墓は京都妙覚寺と池上本門寺、法名は円大院孝信日養。
画風は父譲りの力強い筆法に加え、兄の華麗さ・温和さを折衷し、後の探幽様式の基礎的な線質を準備した画家であったといえる。人物の面貌描写や衣文線、岩の皴法などが彫りが深いのが特徴である[11]。探幽は孝信の方向(永徳と光信の折衷)に倣う反面、力強い線は受け継がず淡く繊細な線を取り入れたため、孝信様式は同じく力強い線を用いる安信に受け継がれた[12]。
