独孤及
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幼いときに『孝経』を読み、「身を立てて道を行い、後世に名を揚げたい」と、父に語った。天宝末年、道挙に及第して、華陰県尉に任じられた。李華や蕭穎士と名声を等しくし、文章を得意として、「仙掌銘」を著した。江淮都統の李峘の幕府に召し出され、掌書記となった[2][3]。
代宗に左拾遺として召し出され着任すると、疲弊した民衆をいたわり、租税を半減させるよう上疏した[4]。
まもなく太常寺博士に転じた。ある人が景皇帝李虎の廟号を太祖とするのはよろしくないと上奏したため、独孤及は礼の条に拠ってこれに反論した。呂諲・盧奕・郭知運らの功罪を論じてその諡を定めた。礼部員外郎に転じ、濠州刺史・舒州刺史を歴任した。旱魃による飢饉が発生し、隣州の被害は甚大だったが、舒州はひとり安泰を保った。統治の成績により検校司封郎中を加えられた。常州刺史に転じた。大暦12年(777年)、死去した。享年は53。諡は憲といった[5]。著書に『毗陵集』20巻[6]があった。