独孤朗
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はじめ江南西道・宣歙・浙江東道観察使の補佐役を歴任した。元和年間、右拾遺に抜擢された。観察使に本道の塩鉄を領知させ、塩や茶の専売をおこなう官吏を監督する権限を取り上げるよう建言したが、憲宗に聞き入れられなかった。淮西の呉元済に対する出兵を取りやめるよう請願して、憲宗の意に合わず、興元府戸曹参軍に左遷された。入朝して監察御史となり、殿中侍御史に進んだ。元和15年(820年)、史館修撰を兼ね、都官員外郎に転じた[3][1]。
長慶元年(821年)、諫議大夫の李景倹が史館で飲酒して、酔って宰相に面会し、侮辱の言があった。独孤朗はともに飲んでいたため罪に連座して、韶州刺史として出された。入朝して左司員外郎となり、諫議大夫に転じた。淮南節度使の王播が塩鉄使の兼官を解かれたが、宦官に賄賂を贈って、銅塩使の領知を求めた。独孤朗は上章してこれを非難した[3][1]。
宝暦元年(825年)11月、独孤朗は御史中丞に任じられた。宝暦2年(826年)6月、金紫の服を賜った。侍御史の李道枢が酔って独孤朗に面会した。独孤朗は李道枢を弾劾して、司議郎に左遷させた。宰相が崔晃や鄭居中を御史に取り立てようとしたが、独孤朗はその人事を受け入れなかった。10月、高少逸が入閣して礼儀を失することがあったが、独孤朗は弾劾の上奏をしなかった。高少逸が降格されると、独孤朗は減給された。独孤朗は御史中丞から退任したいと願い出たが、敬宗は宦官の使者を派遣してかれを慰留した。文宗が即位すると、独孤朗は工部侍郎に転じた。大和元年(827年)8月、福州刺史・御史中丞・福建都団練観察等使として出向した。赴任する途中に、道中で突然死した。享年は53。右散騎常侍の位を追贈された[3][4]。