獨逸学協会
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概要
1873年(明治6年)には在日ドイツ人の集まりを母体として東京でオーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会が創設された[1]。普仏戦争で勝利したプロイセンは日本の注目関心を集めたが、ドイツ語を解する人材を欠いたこともあり、法律分野ではフランス法の優位は容易に動かなかった。しかし、フランスの慢心が敗因とみられたため、文化や風俗まで模倣すべきでないことになった[2]。
独逸学協会は、ドイツ文化も取り入れていくという明治政府の国策により、1881年9月18日、西周や加藤弘之などの啓蒙学者を起用して設立された。東京麹町に在所し、北白川宮能久親王が初代総裁となり、山縣有朋、松方正義、山田顕義、西郷従道、井上毅、青木周蔵、桂太郎、平田東助、伊藤博文、品川弥二郎、杉浦重剛、三好重臣、イギリス法学派の穂積陳重などの明治時代の法制・外交・軍事・皇族教育に関わる官僚や、ドイツ側の会員としてオットー・ヘリング、ドールベルヒ男爵、ヘルマン・ロエスレル、武器商を兄に持つルドルフ・レーマン、経済学者カール・ラートゲン、統計学者のパウル・マイエット、ゲオルク・ミヒャエリス、アルベルト・モッセ、宣教師のウィルフリード・スピンナーらが名を連ねた[3]。
沿革
独逸学協会は、1883年に宮内省からの補助金を得て、後のドイツ帝国帝国宰相のミヒャエリスを教頭に、獨逸学協会学校を設立し、ドイツ語及びドイツ文化の普及に努めた。後には文部省と司法省からも補助金を得た[4]。独逸学協会学校専修科はこうして九大法律学校の1つに数えられるようになった。
1884年には文部省が、ドイツ学の帝国大学への普及方針を策定し、東京帝国大学に独法科・独文科を設置した。この流れにより独逸学協会学校の専修科は1895年、東京帝国大学独法科に吸収された。以後、独逸学協会学校は私学の中学校となった。
大日本帝国憲法の草案には会員のヘルマン・ロエスレルが深く関わり、他、商法典論争・刑法典論争や1889年の民法典論争でドイツ法学派の活動はさらに増大した。1908年には、東京にドイツ・スイス系の普及福音教会の東郷坂教会も進出した。
1938 年11月には日独文化協定が成立し、実施機関の在京日独文化連絡協議会の主事に日本学者のワルテル・ドーナートが着任した[5]。
1947年には財団法人独逸学協会は財団法人独協学園に、独逸学協会学校は独協中学校に名称変更した。