玄甲軍
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概要
編成
武徳4年(621年)、李世民は王世充を討伐する軍を率いる中で、正式に玄甲軍を編成した。創設当初の兵力は約1000人余りであったが、のちに3000人に増強され[3]。李世民はみずから精鋭の士卒を選抜し、秦叔宝・程知節・尉遅敬徳・翟長孫の四人の名将をそれぞれの指揮官に任命した[1]。戦いのたびごとに、李世民は必ず玄甲を身にまとい、玄甲軍を率いて先鋒を務め、機に乗じて攻撃を加えた。その軍鋒の向かうところ、敵を粉砕せぬことはなく、敵はこれを大いに恐れた[4]。
装備
玄甲軍の全将兵には、唐代で最も精良な明光鎧が支給された[5]。明光鎧は唐代の十三鎧の筆頭に位置づけられ、その優れた防御性能で知られる[6]。装備武器としては、漆槍[7]・横刀[8]・角弓[9]などがあった。
主な戦績
武徳4年(621年)、行台僕射の屈突通と賛皇公の竇軌は、兵を率いて軍営を巡察していたところ、突然、王世充の軍勢と遭遇し、戦況不利に陥った。秦王・李世民は玄甲軍を率いてこれを救援し、王世充を大いに打ち破った。唐軍はその騎将である葛彦璋を捕虜とし、六千余人を捕虜あるいは斬殺した。王世充は逃げ帰った[10]。
武徳4年(621年)、李世民は3500の精鋭騎兵を率いて虎牢関に駐屯し、竇建徳の率いる十数万の大軍を防いだ。決戦において、李世民はみずから玄甲軍を率いて竇建徳の指揮中枢に突撃し、竇建徳を生け捕りにした[11]。その後、王世充を降伏させ、河南・河北の地を一挙に平定し、唐朝の天下統一に向けて決定的な基盤を築いた[12]。
参考文献
- 『資治通鑑』巻188 唐紀4
- 『資治通鑑』巻189 唐紀5
- 『唐六典』巻16