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玄甲軍

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玄甲軍(げんこうぐん)は、初唐において秦王・李世民(のちの唐太宗)によって編成された精鋭騎兵部隊であり、兵士と軍馬の双方が黒色の鎧を身に着けていたことにその名は由来する[1]。虎牢の戦いでは、竇建徳の十万の大軍を撃破するうえで決定的な役割を果たした。同時代のビザンツ帝国やサーサーン朝ペルシアの騎兵と並ぶ、世界で最も先進的な騎兵部隊であったと評価されている[2]。

中国陝西省西安市雁塔区の大唐不夜城にある、李世民と軍勢の彫像 中国陝西省西安市雁塔区の大唐不夜城にある、李世民と軍勢の彫像
中国陝西省西安市雁塔区の大唐不夜城にある、李世民と軍勢の彫像

概要

編成

武徳4年(621年)、李世民は王世充を討伐する軍を率いる中で、正式に玄甲軍を編成した。創設当初の兵力は約1000人余りであったが、のちに3000人に増強され[3]。李世民はみずから精鋭の士卒を選抜し、秦叔宝・程知節・尉遅敬徳・翟長孫の四人の名将をそれぞれの指揮官に任命した[1]。戦いのたびごとに、李世民は必ず玄甲を身にまとい、玄甲軍を率いて先鋒を務め、機に乗じて攻撃を加えた。その軍鋒の向かうところ、敵を粉砕せぬことはなく、敵はこれを大いに恐れた[4]。

装備

玄甲軍の全将兵には、唐代で最も精良な明光鎧が支給された[5]。明光鎧は唐代の十三鎧の筆頭に位置づけられ、その優れた防御性能で知られる[6]。装備武器としては、漆槍[7]・横刀[8]・角弓[9]などがあった。

主な戦績

武徳4年(621年)、行台僕射の屈突通と賛皇公の竇軌は、兵を率いて軍営を巡察していたところ、突然、王世充の軍勢と遭遇し、戦況不利に陥った。秦王・李世民は玄甲軍を率いてこれを救援し、王世充を大いに打ち破った。唐軍はその騎将である葛彦璋を捕虜とし、六千余人を捕虜あるいは斬殺した。王世充は逃げ帰った[10]。

武徳4年(621年)、李世民は3500の精鋭騎兵を率いて虎牢関に駐屯し、竇建徳の率いる十数万の大軍を防いだ。決戦において、李世民はみずから玄甲軍を率いて竇建徳の指揮中枢に突撃し、竇建徳を生け捕りにした[11]。その後、王世充を降伏させ、河南・河北の地を一挙に平定し、唐朝の天下統一に向けて決定的な基盤を築いた[12]。

参考文献

  • 『資治通鑑』巻188 唐紀4
  • 『資治通鑑』巻189 唐紀5
  • 『唐六典』巻16

関連項目

脚注

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