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玉井栄

日本の野球選手 (1918-1953) From Wikipedia, the free encyclopedia

玉井 栄(たまい さかえ、1918年5月26日 - 1953年6月)は福岡県出身のプロ野球選手。

出身地 日本の旗 日本 福岡県
生年月日 1918年5月26日
没年月日 1953年6月(満35歳没)
身長
体重
173 cm
68 kg
概要 基本情報, 出身地 ...
玉井 栄
基本情報
出身地 日本の旗 日本 福岡県
生年月日 1918年5月26日
没年月日 1953年6月(満35歳没)
身長
体重
173 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1937年
初出場 1937年3月27日[1]
最終出場 1938年11月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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来歴・人物

旧制小倉工業(現:福岡県立小倉工業高等学校)では、エースとして1934年の第11回選抜中等学校野球大会・第20回全国中等学校優勝野球大会、1935年の第12回選抜中等学校野球大会、1936年の第13回選抜中等学校野球大会・第22回全国中等学校優勝野球大会の計5回に出場した[2]。

強打者として注目を集め、巨人とタイガースの争奪戦となったが、最終的には大橋棣の仲介により、大阪タイガースに入団[3][4]。期待は高かったが、景浦將、山口政信、藤井勇などが揃った外野陣の牙城を崩せず、1938年末に召集され退団。中国戦線ではタイガース時代の同僚だった本堂保次との再会もあったが[5]、のちビルマ戦線で足を負傷[3]。1943年末に復員するが、チームへは復帰しなかった[6]。戦後も球界には復帰せず、九州電力に就職[2]。しかし、1953年6月に発生した昭和28年西日本水害の際、感電死した[2]。享年35。

先述の通り、第一次長沙作戦にて本堂保次と再会しているが、本堂は後年このことに関して振り返った際に玉井の印象について「堂々とした見習士官だった」と語っている[7]。一方で、本堂は玉井が戦場から帰還してこないことを聞かされたと回想しているが、再招集された可能性があるとはいえ、実際は戦後も無事生存している[7]。

2019年、玉井が受賞したブロンズ像が遺族によって母校に寄付された[2]。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

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二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1937春 大阪 20262042010402--0--6--04--.100.308.200.508
1937秋 15131203000310--1--0--04--.250.250.250.500
1938春 8141234100512--1--1--02--.333.385.417.801
1938秋 88701000100--0--1--02--.143.250.143.393
通算:2年 5161517101101324--2--8--012--.196.305.255.560
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背番号

  • 26 (1937年 - 1938年)

関連項目

脚注

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