王君廓
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幼くして孤児となり、馬の仲買人になった。素行は悪く、盗みをよくした。大業末年、人々を集めて隋にそむき、夏県・長平県を掠奪した。河東郡丞の丁栄が君廓に使者を送って招諭しようとした。君廓は山谷の中に兵を伏せて丁栄を騙し討ちにした。また韋宝・鄧豹らと連係して虞郷を掠奪した。宋老生と戦って不利に陥ると、いつわって降伏を願い出て哀訴し、宋老生が油断している隙に遁走した。
617年、李淵が起兵すると、君廓を召したが、君廓は従わず李密に帰した。李密は君廓を礼遇しなかったので、君廓は唐に帰順した。上柱国の位を受け、河内太守を代行し、常山郡公に封ぜられた。遼州刺史に転じ、上谷郡公に徙封された。621年、洛陽での戦いで戦功があり、右武衛将軍に任ぜられた。王世充の部将の魏隠を破り、緱氏の糧道を断ち、食糧運搬船三十隻を鎮めた。彭国公に封ぜられ、幽州に駐屯した。突厥の侵攻を迎撃し、敵兵二千を斬り、馬五千匹を鹵獲した。627年、廬江王李瑗が乱を起こすと、君廓は李瑗を捕らえる功績を挙げた。幽州都督に任ぜられ、李瑗の財産を賜り、左光禄大夫に進んだ。
君廓は官職にあっても法律を守らず、長史の李玄道に取りしまられ、関係が険悪化した。ときに太宗に召されて渭南まで来たとき、房玄齢と李玄道のあいだの手紙を見て、自分を陥れようとしているのではないかと疑い、恐れて乱を起こし駅史を殺した。突厥に亡命しようとしたが、在野の人に斬り殺された。太宗はかれの功績を思って、遺体を収容して葬り、かれの家族をもとどおり待遇した。しかし御史大夫温彦博が君廓は叛臣であると弾劾したので、庶人に落とされた。
人物・逸話
王君廓は若い頃、漁具のような竹かごを背負っていた。その竹かごには内側に逆棘が付いていた。ある日、彼は絹織物を売る者に出会うと、その竹かごで相手の頭を被せた。逆棘のため相手は抜け出せず、彼は絹織物を奪い去った。持ち主は彼を見分けることもできなかった。村の人々は皆、彼を厄介者だと思っていた。[1]
大都督の廬江王李瑗が謀反を起こし、王君廓の兵権を奪って王詵に委ねようとした。王君廓はもともと、わざと李瑗をそそのかして乱を起こさせ、自らの手柄にしようとしていた。そこで数騎の兵を率いて王詵を訪ね、騎兵たちを外に待たせて、「呼び声が聞こえたら中に入れ」と言い含めた。そして自ら単身で王詵に会いに行き、偽って「急変がありました。お報せしなければなりません」と言った。王詵がちょうど髪を洗っているところで、髪をまとめたまま出てきたところを、王君廓は即座に斬り殺し、続いて李瑗を捕らえた。[2]