王威は若くして荊州の郡吏となった。刺史の劉表が「有益で時事に適した陳情であれば、身分の貴賤を問わず聞く」と布告を出した。王威は陳事を評価されて州刺史の官吏となり、大蝋(年の暮れ)に交替で休暇を取った[1]。
建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻する。曹操の到着前に劉表は死去し、その子・劉琮が跡を継いだ。劉琮は戦わずして曹操に降伏し、劉表を頼って荊州にいた劉備は逃走した。このとき王威は、油断しているであろう曹操を襲撃することを劉琮に進言するが、認められなかった(『漢晋春秋』)。その後の王威の動向は不明である。