初等中学卒業後に江蘇陸軍補助教導団に所属した。その後は江蘇陸軍で排長、連長、営長を歴任し、1914年(民国3年)に福建省へ移って督軍署中校参謀に任命された[1][4]。1916年(民国5年)、督軍署衛隊第1団団長に任命され、上校参謀もつとめている[1]。
1926年(民国15年)、王殿忠は山東省の張宗昌配下となり、直魯聯軍に属することになった[4]。直魯聯軍では第6軍騎兵第23団団長、第12連隊司令兼江北警備司令兼津浦護路司令を歴任し、1928年(民国17年)には騎兵総指揮兼歩兵第1師師長兼前敵総司令に任命されている[1]。北伐軍に敗れて直魯聯軍が崩壊すると、王も国民政府から指名手配されている。王は各地を逃亡した末に、天津の日本租界へ逃げ込んだ[4]。
国民政府時代は雌伏を強いられた王殿忠だったが、満洲事変勃発後に日本側と連絡を取り合い、再起することになる[4]。満洲国建国後の1932年(大同元年)、奉天省暫編陸軍歩兵第1旅中将旅長兼遼河地区警備司令として起用された。翌1933年(大同2年)、奉天省警備軍混成第3旅旅長兼遼河地区警備司令となる。1934年(康徳元年)、第1軍管区(司令官:于芷山)第1地区警備司令官(安東地区)となる[2][4][5]。
1936年(康徳3年)、王殿忠は第6軍管区(牡丹江)司令官に起用され[4]、同年8月24日、第5軍管区司令官・王静修と共に陸軍上将に昇進した[6]。1938年(康徳5年)、王殿忠は第1軍管区司令官に移り[4]、1941年(康徳8年)3月3日、軍事諮議官となった[7][8]。
満洲国崩壊後、王殿忠は中国国民党営口支部書記長と連携し、営口治安(維持)委員会兼市長に就任した。翌1946年(民国35年)、中国共産党軍に王殿忠は逮捕され、安東省自治政府の地域へ連行・収監された。ところが情勢の変化により王殿忠は赦免され、元同僚の王家善[9]の推薦で営口市政府顧問に起用されている[4]。
中華人民共和国建国後の1950年12月、王殿忠は反革命罪で当局に摘発され、翌1951年に処刑された[4]。享年70。