清末の附生。北洋陸軍速成学堂を経て陸軍大学校 [注 1]第3期を卒業した[1]。
1914年(民国3年)2月、北京政府で陸軍砲兵上尉位を授与され、翌1916年(民国5年)5月に陸軍歩兵中校位に昇進している。同年11月以降、陸軍第3師一等参謀官、直隷陸軍第2混成旅歩兵第2団砲兵第2営営長、陸軍砲兵第23団団長と歴任した。また、1918年(民国7年)5月、陸軍歩兵上校位を授与された[2][3]。
1922年(民国11年)8月、察哈爾省都統・張錫元の下で、王煥斎は都統署上校参謀に任命された。同年12月、陸軍少将位に昇進している。翌1923年(民国12年)11月、察哈爾都統署参謀長兼軍務処処長に抜擢された。1924年(民国13年)12月、張錫元が国民軍の圧力で都統辞任に追い込まれると、残務処理と見られる期間を経て、翌1925年(民国14年)2月に王も下野した。3月、北京政府参謀本部科長へ移ったが、同年末に病気辞職した[2]。
北京政府崩壊後は下野し、蔣介石国民政府には出仕しなかったと見られる。
1937年(民国27年)12月、王克敏が中華民国臨時政府を創設すると、王煥斎もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月、治安部(総長:斉燮元)で建制局局長に抜擢されている[4][5]。ところが同年5月、王煥斎は建制局第一科科長・黄南鵬に局長の地位を取って替わられ、王自身は治安部参事へ異動となった[6]。翌1939年(民国28年)3月、陸軍軍官隊教官を兼務している[7]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府は南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組された。治安部も治安総署に改組されている。しかし、王煥斎は治安総署において直接の任用を受けることは無く、治安総署が運営する広報誌『軍事月刊』社の編輯へ移った[1]。
以上の人事動向からして、王煥斎は治安部の主要幹部として当初招聘されながらも、急速に地位を喪失し、冷遇に等しい環境へと落ち込んでいったと言い得る。
1942年以降における王煥斎の動向・行方は不詳となっている。