黄南鵬
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| 黄南鵬 | |
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『軍事月刊』第4期(1940年) | |
| プロフィール | |
| 出生: | 1900年10月9日[1][注 1] |
| 死去: | 没年不明(1985年時点では存命) |
| 出身地: | 台湾[2](一説に福建省漳州府詔安県[1][3]) |
| 職業: | 軍人・軍務官僚・政治活動家・美術家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 黃南鵬 |
| 簡体字: | 黄南鹏 |
| 拼音: | Huáng Nánpéng |
| ラテン字: | Huang Nan-p’eng |
| 和名表記: | こう なんほう/こう なんぽう |
| 発音転記: | フアン・ナンポン |
黄 南鵬(こう なんほう/こう なんぽう、1900年10月9日 – 没年不明)は、台湾・中華民国の軍人・軍務官僚・政治活動家・美術家。在日華僑。別号は翼雲[3]。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会では、台湾出身ながら[注 2]軍事の要職を歴任している。戦後は日本へ亡命し、台湾独立運動に従事した。
初期の活動
南京国立東南大学卒業後に、日本へ軍事留学している。日本陸軍士官学校第18期歩兵科を卒業しており[1]、同期には湯恩伯らがいる[4][注 3]。
その後は中国に戻り、国民政府中央軍で団長となる[1]。1933年(民国22年)から1934年(民国23年)にかけて、黄南鵬は福建事変に参加することで蔣介石に反抗したものの、敗北して台湾経由で日本へ逃れたという[4]。
親日政権での活動
1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(冀東防共自治政府)を樹立すると、黄南鵬もこれに参加したというが[2]、具体的な地位・職官は不詳である。
王克敏が北京で中華民国臨時政府を樹立すると、黄南鵬もこれに直ちに参加する。1938年(民国27年)1月、治安部(総長:斉燮元)で建制局[注 4]第一科科長に任用された[5]。同年5月、黄は早くも建制局局長に抜擢されている[6][7][注 5]。翌1939年(民国28年)10月、華北治安軍陸軍第2集団司令(駐屯地:保定)に起用された[8]。また、軍職以外には華僑協会董事(理事)もつとめている[1]。
1940年(民国29年)3月、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。華北治安軍は華北綏靖軍に、治安部は治安総署に、それぞれ改組された。黄南鵬は、綏靖軍第2集団司令に重任している[注 6]。1943年(民国32年)1月、第2集団司令を離れ、陸軍軍官学校教務長代理に移った[9]。同年10月10日、国民政府中央から陸軍少将位を授与されている[10][注 7]。このほか、冀東行営主任や憲兵司令などを歴任したとされる[2]。
日本亡命、台湾独立運動
汪兆銘政権崩壊後、黄南鵬は漢奸として逮捕された。1946年(民国35年)、軍事委員会委員長北平行営主任・李宗仁が主宰する軍事法廷において、他の22人の被告[注 8]と共に審理されたが[11]、黄の最終的な判決については不詳である。いずれにしても収監されていたが、中国人民解放軍が北京市に迫る直前に釈放され、香港へ脱出した[2]。
1950年(昭和25年)、日本へ亡命する。廖文毅らと台湾独立党を結成し、黄南鵬は同党副主席となった。しかし、主席の廖とは意見が合わず、1954年(昭和29年)に台湾独立党を脱退している(原因につき後述)。黄は新たに台湾民主独立聯盟を結成し、林献堂を総裁として推薦、自らは総裁代理となった[2]。このため、1955年に廖が樹立した台湾共和国臨時政府には、黄は参画していない。
台湾独立党以外の黄南鵬の活動としては、1953年(昭和28年)10月、岡村寧次・和知鷹二らの支援を受け、中国人対日協力者の団体である「在日中国人更生会」を設立したことが挙げられる。しかし、会内部の対立により早期で自然消滅となった[12]。また、曹若山・陳中孚らの亜細亜友之会にも、黄は常務幹事として参加している[13]。
晩年
晩年の黄南鵬は日本画壇で活動し、昭和40年(1965年)頃から美術名鑑類に名前が載るようになる[注 9]。その記載によれば中国新美協会委員、創元会友などとされている。『美術手帖年鑑 ‘86』(美術出版社)、189頁では、洋画団体・大洋会の会員として黄の名が掲載されているが、翌’87年の同年鑑からはその名が消えた。その他の情報も見当たらず、1986年以降の動向は不詳となっている。