王珪

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王珪571年639年)、字は叔玠。扶風郿県(現在の陝西省眉県)の出身、また太原祁県(現在の山西省祁県)の出身ともされる。南梁の尚書令・王僧弁の孫であり、初の宰相である。

早年の経歴

王珪は若い頃、性格が淡泊かつ高雅で、志は深く、名利を重視せず、安易に交友関係を築くこともなかった。その様子は叔父の王頍から高く評価されていた。

開皇13年(593年)、王珪は秘書内省に召し出され、太常治礼郎に任じられ、図書典籍の校定に携わった。

仁寿4年(604年)、王頍が漢王楊諒に従い隋の煬帝に反乱を起こすが、敗戦により処刑された。王珪は王頍の甥であったため、連座の法によって処罰対象となった。彼は終南山に逃れ、十余年にわたって隠遁生活を送った。

唐朝に仕える

隋の大業13年(617年)、李淵が関中に進攻し、代王楊侑を擁立して皇帝とし、自らは唐王に封じられ、長子の李建成を世子に立てた。王珪は丞相府司録・李綱の推挙を得て、世子府諮議参軍に任じられた。

唐の高祖・武徳元年(618年)、李淵は禅譲を受けて皇帝に即位し、唐朝を建国。李建成は皇太子に冊立されると、王珪は太子中舎人に任命され、後に太子中允に転じ、李建成の深い信任を得た。

武徳7年(624年)、慶州刺史・楊文幹の兵変を機に、李建成と秦王・李世民の対立が深刻化する。高祖(李淵)は、王珪が皇太子を十分に輔導せず、兄弟の不和を招いたとみなして、彼を巂州(現在の四川省西昌市) に流罪とした。

太宗朝

武徳9年(626年)、李世民は玄武門の変を起こし、李建成を誅殺して皇太子に立てられ、間もなく即位して太宗となった。王珪は魏徴と共に朝廷に召還され、諫議大夫に任じられた。同年10月、太宗は李建成を息王に追封し礼を改めて葬儀を行い、王珪は魏徴ら元東宮の官属と共に葬儀に参列した。

貞観元年(627年)、太宗は群臣に対し「君臣が互いを理解し合って初めて天下は太平となる。漢の高祖は武力で天下を取ったが、国祚が長かったのは賢臣を任用したからだ。朕は聖明とは言えぬが、卿らが直言諫めて天下を安んじてほしい」と述べた。これに対し王珪は「陛下が広く言路を開き諫言を受け容れられるなら、臣は誠意を尽くして輔弼いたします」と進言した。太宗はこれを受け、諫官が宰相と共に内廷に参画することを許可した。王珪は頻繁に諫言を献じたことで太宗の信任を深め、黄門侍郎に転じ太子右庶子を兼任、永寧県男の爵位を賜った。同年8月、王珪が侍中・高士廉に密奏の伝達を依頼した際、高士廉はこれを留置したため罪に問われ左遷された。

貞観2年(628年)、王珪は高士廉に代わり侍中の職務を代行し、爵位は永寧郡公に進んだ。貞観4年(630年)、太宗は正式に王珪を侍中に任命した。

魏王への教導

貞観7年(633年)、王珪は禁中の密語を漏洩した罪により、同州刺史に左遷された。貞観8年(634年)、太宗は再び王珪を朝廷に召し還し、礼部尚书に任じて『五礼』の編纂に参与させた。

貞観11年(637年)、王珪は魏王の師傅を兼任し、魏王李泰の教導を担当した。彼は師の礼を以て臨み、李泰が師礼を尽くすことを当然として受けた。ある時、李泰が忠孝について問うと、王珪は「陛下は君であり、忠を尽くして仕えねばならない。また父であり、孝を尽くして仕えねばならない。忠孝を全うすることで自らを立て、美名を得ることができる。漢の東平王劉蒼は『善を行うことは最も楽しみである』と言った。この言葉を心に留められよ」と説いた。太宗はこの話を聞き、「李泰が過ちを犯さずに済むであろう」と喜んだ。

貞観12年(638年)、王珪は「三品以上の官員が親王と会う際、下車して礼をする慣例は礼制に適いません」と上奏した。太宗は不興を示し「卿らは自らの尊貴を誇るため、我が子を軽んじようとするのか」と述べたが、王珪と魏徴の強い諫めにより、最終的に王珪の建議を容れて諸王の権勢を抑制した。

病没する

貞観13年(639年)、王珪が病に倒れる。太宗は娘の南平公主(王珪の息子の妻)を見舞いに行かせ、さらに民部尚書・唐倹に命じて薬剤や食事の調節を担当させた。まもなく王珪は病没し、享年69歳であった。太宗は喪服を着て哀悼の意を示し、李泰に百官を率いさせて葬儀を行わせた。また、王珪に吏部尚書を追贈し、諡号を「懿」と賜った。

評価

権徳輿:我が太宗文皇帝が天下を治められた際、魏徴や王珪らは直言諫言をもって大化を輔け、限りなき御代の基は、実にここに兆したのである。[1][2]

李徳裕:王珪の如きは、微を見るの士と言うべく、禍福に明るし。[3][4]

劉昫:王珪は正道を踏み外さず、忠言直諫に比類する者がいなかった。君臣の時運と天命は、彼の存在によって見事に結実したのである。『易経』に「天がこれを助けるならば、吉祥であり、利なきことはない」とあるが、王珪はまさにその体現者であった。[5]

宋祁:珪は幼くして孤(みなしご)となり、かつ貧しかった。人が贈り物をしても、初めは固辞しなかった。しかし、地位を得てからは厚く報い、贈り主が既に亡くなっていても必ずその家族を援助した。性格は細かいことを詮索せず、官職においては要所を押さえ、特に許しがたいことのみを退けた。側近の僕妾に対しても、喜怒を顔に出さなかった。未亡人の兄嫁を大切に仕え、家のことは相談してから行った。孤児となった甥を養育する慈愛は、実の子にも勝るほどであった。宗族の中で困窮する者があれば救済し、自らの暮らしは質素にした。[6]

人物・逸話

伝記資料

脚注

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