王瓚

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王 瓚(おう さん、生年不詳 - 923年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫太原府祁県

経歴

河中節度使の王重盈の子として生まれた。天復元年(901年)、朱全忠河中府を平定すると、王瓚は汴州に移されて補佐役となった。後梁が建てられると、王瓚は諸衛大将軍・鎮国軍節度使・開封尹を歴任した。貞明5年(919年)、賀瓌に代わって軍を率いて黄河に駐屯した。ときに李存審が徳勝口に塁を築いていた。秋8月、王瓚は梁軍5万を率いて、黎陽県から黄河を渡り、魏州を襲撃しようとし、晋の李嗣源が軍を出してこれを阻もうとした。王瓚は澶州に達して軍を返すと、楊村に黄河を挟んで塁を築き、浮橋を架けて、滑州から糧食を相次いで輸送させた。王瓚は軍法に厳しく、禁止を令行させたが、応変の機略には長じていなかった。11月、王瓚がその兵を率いて観城県を威力偵察すると、李嗣源は先鋒を率いて王瓚の兵を攻撃し、王瓚の将の李立を捕らえた。12月、晋王李存勗が兵5000を派遣して、伏兵を設けて梁軍の食糧輸送部隊を捕らえた。王瓚は河曲に陣を布いて、晋軍を待ち受け、一戦して敗北した。王瓚の兵は敗走して南城を守り、王瓚は小舟で渡河して落命を免れた。晋軍は勝利に乗じて曹州濮州の一帯を占領した。後梁の末帝は王瓚を戴思遠に交代させて召還した[1]

同光元年(923年)、後唐の軍が開封府を攻撃すると、末帝は建国門楼に登って、日夜涙を流すばかりであった。李嗣源が封丘門に到着すると、王瓚は門を開いて李嗣源を迎えて降った。翌日、後唐の荘宗(李存勗)が元徳殿に出御すると、王瓚らは許された。末帝の遺体を仏寺に納め、その首級を漆塗りにして郊社に送るよう命じられた。荘宗は後梁の権臣だった趙巌や張漢傑・張漢融・張漢倫・張希逸・趙縠・朱珪らを一族皆殺しにした。いっぽう王瓚は宣武軍節度副使・知開封府軍府事・検校太傅に任じられた。王瓚は猜疑心に捕らわれて病にかかった。12月、死去した。太子太師の位を追贈された[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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