父・王彦昇は陳橋の変で趙匡胤(宋太祖)の即位に決定的功績を挙げながら、韓通一家皆殺しの軍紀違反により太祖から終生節度使の節鉞を与えられなかった。[1]
太平興国4年(979年)、王彦昇が洛陽で病没すると、即位直後の太宗は王貽永に対して異例の厚遇を行った。[2]
父の旧職である防州防御使に抜擢され、邸宅・田畑・巨額の財産を下賜されたほか、子孫の代まで官職を保障する特旨を発布された。
これは宋太祖が生前与えなかった節鉞を、太宗が間接的に補償した形とも解釈され、宋初の功臣子弟掌握策の一例とされる。
その後の事績は史書に詳しくないが、王氏一門は北宋中期まで地方武官として存続した。