王彦昇

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王 彦昇(おう げんしょう、生年不詳 - 979年)は、五代後唐から北宋初期にかけての軍人。字は光烈。剣南の出身。『宋史』に「性残忍多力、善撃剣」と記され、「王剣児」の異名で知られた[1]

経歴

後唐の同光年間に宦官の孟漢瓊の配下として東班承旨となり、後晋後漢後周と仕官を重ねた。顕徳6年(959年)、後周の世宗南唐征伐では金牛水寨を抜く大手柄で鉄騎軍都校・合州刺史に抜擢された[1]

建隆元年(960年)、陳橋の変趙匡胤の即位を確実にするため独断で後周の忠臣韓通一家を皆殺しにした功により恩州団練使に任じられたが、軍紀違反として太祖は終生節度使の節鉞を授けなかった[1][2]

京城巡検時には宰相王溥の邸宅を半夜に訪れ賄賂を求めた行為が記され、王溥の密奏により外放された[1]

その後、坊州防禦使から原州刺史を歴任し、原州では西戎の犯法者を宴席で耳を扯断して酒の肴とする行為を繰り返し、周辺部族を畏怖させた[1]

太平興国4年(979年)に洛陽で病没した。享年は68[1]

八策書

後周の世宗の南唐征伐に際し、王彦昇が上奏した軍事・行政に関する八カ条の政策書。兵站・軍紀・税制・民力休養などを提言し、宋初の杯酒釈兵権や重文軽武政策の思想的先駆とされた。現存する全文はなく、『宋史』本伝および『続資治通鑑長編』に概要が記されている[1]

エピソード

陳橋の変で韓通を殺害した際、韓通の首を趙匡胤に捧げ「これで陛下の御座は安泰です」と告げたという逸話が伝わる(『続資治通鑑長編』巻1)[2]

家族

子に王貽永があり、太宗即位後に特別に優遇された[1]

脚注

参考文献

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