王饒

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王 饒(おう じょう、899年 - 957年)は、五代十国時代軍人は受益。本貫慶州華池県[1]

王柔の子として生まれた。沈着剛毅で才幹があり、はじめ後唐石敬瑭に仕えた。後晋天福元年(936年)、控鶴軍使に任じられた。のちに奉国軍校に累進し、検校尚書左僕射を加えられた。天福6年(941年)、杜重威に従って安重栄の乱を討ち、功により検校司空となった。奉国軍都校に進み、鄆州刺史に任じられた。安従進襄州で反乱を起こすと、王饒は行営歩軍都指揮使となり、高行周に従って反乱軍を討った。天福7年(942年)、安従進の乱が鎮圧されると、王饒は深州刺史に任じられた。天福8年(943年)、再び奉国軍都校となり、検校司徒を加えられ、欽州刺史を遥領した。ほどなく奉国軍右廂都指揮使に転じ、閬州団練使を遥領した[1]開運3年(946年)、歩軍右廂都指揮使に任じられた[2]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠太原府で起兵し、華北を制圧したが、鎮州契丹の占拠するところとなっていた。ときに王饒は鎮州にいたので、李栄白再栄の仲間とともに隙をうかがって起兵し、契丹を駆逐した[3]乾祐元年(948年[4]、劉知遠にその功を嘉され、鄜州観察留後となり、光禄大夫を加えられ、開国侯の爵位を受けた[5]。乾祐2年(949年)、検校太傅を加えられた[6]。乾祐3年(950年)、華州節度使に転じた[7]

広順元年(951年)、後周が建国されると、王饒は同平章事を加えられ[8]、推誠奉義翊戴功臣の号を賜った[5]。永清軍節度使に任じられた[9]顕徳元年(954年)、郊丘の礼が終わると、王饒は検校太尉を加えられた[10]。世宗柴栄が即位すると、王饒は侍中を兼ね、彰徳軍節度使に転じた。任期を満了して交代し、入朝して奉朝請となった。顕徳4年(957年)冬[注釈 1]洛陽の私邸で病没した。享年は59。巣国公に追封された[5]

子に王継勲[11]、娘に孝明王皇后中国語版[12]があった。

脚注

伝記資料

参考文献

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