計算論的神経科学
数学的・コンピュータ科学的なデータ解析やモデルを使って脳や体の神経の生化学分子、細胞、神経(ニューラル)ネットワーク、情報処理、認知機能などを研究する学際的科学
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計算論的神経科学(けいさんろんてきしんけいかがく、英: computational neuroscience)または計算神経科学は、神経系の構造、活動、情報処理、学習、行動生成を、数理モデル、理論解析、コンピュータシミュレーション、統計的推論などによって研究する神経科学の一分野である[1][2]。認知科学、コンピュータ科学、数学、物理学、生物学、心理学、工学などと接する学際的分野であり、単一のニューロンからシナプス、神経回路、脳領域、行動や認知に至る複数の階層を対象とする[3]。
計算論的神経科学は、しばしば理論神経科学や数理神経科学と重なって用いられる。理論神経科学が数理的な原理や解析を強調するのに対して、計算論的神経科学は、実験データに基づくモデル化、シミュレーション、統計的データ解析を含む広い研究実践を指す場合が多い[1][2]。また、人工ニューラルネットワーク、機械学習、人工知能とは相互に影響し合うが、計算論的神経科学では、生物の神経系における構造、生理、力学、行動との対応を重視する[4]。
概要
計算論的神経科学の目的は、神経系がどのように情報を表現し、処理し、学習し、行動を生み出すかを、明示的なモデルによって説明することである[1]。例えば、感覚刺激がニューロンの発火率やスパイク列としてどのように表現されるか、運動が神経集団の活動からどのように生成されるか、報酬や誤差に基づいて行動がどのように学習されるか、といった問題が扱われる。
この分野では、実験的に得られた神経活動や行動データを記述するだけでなく、観測された現象を生み出す機構を仮定し、そのモデルから検証可能な予測を導くことが重視される。モデルの詳細度は研究目的によって異なり、イオンチャネルや膜電位を明示的に扱う生物物理学的モデルから、神経集団の平均活動を表す低次元モデル、認知課題を実行する抽象的な計算モデルまでが用いられる[2][5]。
デイヴィッド・マーが視覚研究で示した三水準の分析、すなわち計算理論、表現とアルゴリズム、物理的実装という枠組みは、計算論的神経科学にも大きな影響を与えた[6]。日本語文献でも、脳機能を計算理論、表現とアルゴリズム、実装の観点から理解しようとする立場が、運動制御や感覚処理の研究例とともに紹介されている[4]。
歴史
初期の数理モデル
神経系を数理的・計算論的に記述しようとする試みは、20世紀半ばから発展した。ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツは1943年、ニューロンを論理素子として抽象化し、神経活動を論理計算として扱う形式的モデルを提案した[7]。この研究は、神経回路モデル、人工ニューラルネットワーク、人工知能の初期の理論的基盤の一つとなった。
アラン・ロイド・ホジキンとアンドリュー・フィールディング・ハクスリーは1952年、イカの巨大軸索の電気生理学的データに基づき、膜電流と活動電位を定量的に記述するモデルを発表した[8]。ホジキン=ハクスリー・モデルは、単一ニューロンの興奮性を微分方程式で記述する代表例であり、その後の生物物理学的ニューロンモデルの基礎となった[2]。
視覚研究と計算理論
1960年代から1970年代にかけて、デイヴィッド・ヒューベルとトルステン・ウィーゼルによる視覚皮質研究、神経生理学、情報処理理論、コンピュータビジョンが相互に影響を与えた。マーは1982年の著書『Vision』において、視覚を情報処理問題として捉え、計算理論、表現とアルゴリズム、物理的実装という複数水準で理解する必要を論じた[6]。この考え方は、個々のニューロンの活動だけでなく、神経系が解いている計算問題やアルゴリズムを問う研究の方向性を強めた。
神経回路網、神経場、学習理論
1970年代以降、連続的な神経集団の活動を扱う神経場モデル、ヘッブの法則に基づく学習則、アトラクターネットワーク、強化学習、ベイズ推論などが、記憶、意思決定、感覚運動制御のモデル化に応用されるようになった[1][5]。また、計測技術と計算資源の発展により、大規模神経データの統計解析、脳全体のネットワークモデル、深層学習モデルと脳活動の比較なども研究対象となっている[9]。
研究対象
単一ニューロンとシナプス
単一ニューロンのモデルでは、膜電位、イオン電流、発火閾値、スパイク生成などが扱われる。生物物理学的詳細を重視するモデルとしてはホジキン=ハクスリー型モデルがあり、より簡潔なモデルとしては積分発火モデルやスパイク応答モデルが用いられる[8][2]。シナプスについては、シナプス可塑性、ヘッブ学習、スパイクタイミング依存可塑性などが、学習と記憶の数理モデルとして扱われる[2]。
神経回路と神経集団
神経回路のモデルでは、興奮性・抑制性ニューロンの相互作用、振動、同期、競合、アトラクター、確率的発火などが扱われる[5]。多数のニューロンの平均活動を扱う神経集団モデルや神経場モデルは、皮質活動、脳波、注意、作業記憶、空間パターン形成などを記述するために用いられる[10][11]。
システム、行動、認知
より高次の階層では、視覚、聴覚、体性感覚、運動制御、意思決定、記憶、注意、言語、社会的認知などがモデル化される[1][9]。この階層では、神経活動だけでなく、反応時間、選択行動、学習曲線、誤答パターンなどの行動データも、モデルの検証に用いられる。近年は、認知課題を実行する計算モデルを作成し、脳活動および行動データと比較する認知計算論的神経科学も提案されている[9]。
方法論
主な研究テーマ
神経符号化
神経符号化は、感覚刺激、運動指令、記憶、意思決定変数などがニューロンや神経集団の活動にどのように表現されるかを研究する領域である。発火率、スパイク時刻、スパイク列の相関、集団活動の低次元構造などが検討される[1]。運動皮質における集団符号化の古典的研究として、Georgopoulosらは、霊長類の運動皮質ニューロン集団の活動から腕運動の方向を予測できることを示した[15]。また、効率的符号化の考え方は、神経系が限られた発火率やエネルギーの制約のもとで情報を効率的に表現するという仮説として用いられる[1]。
神経ダイナミクスと神経場
神経ダイナミクスの研究では、ニューロンや神経集団の活動が時間とともにどのように変化するかを扱う。発火パターン、バースト、同期、振動、競合、安定状態、分岐などが典型的な対象である[2]。神経場モデルは、空間的に広がった神経集団の平均活動を連続体として表すモデルであり、皮質活動の波、局在活動、パターン形成などを記述するために用いられる[10][11]。甘利俊一による側方抑制型神経場の研究は、この領域の代表的な初期研究の一つである[10]。
予測符号化とベイズ脳
予測符号化は、高次の表現が低次の感覚入力を予測し、予測誤差が階層的に伝達されるという考え方である。RaoとBallardは1999年、視覚皮質における受容野外効果を予測符号化モデルによって説明する研究を発表した[16]。関連する枠組みとして、ベイズ脳仮説は、脳が不確実性を扱う推論システムとして振る舞うという見方を与える[17]。自由エネルギー原理は、知覚、行動、学習を変分自由エネルギーの最小化として統一的に捉えようとする理論の一つである[18]。
運動制御と内部モデル
運動制御の計算論的研究では、身体運動が神経系によってどのように計画、制御、学習されるかを扱う。内部モデルは、身体や環境の入出力関係を神経系内部に表現するモデルであり、順モデルと逆モデルが区別される[14]。川人光男は、小脳と内部モデルに関する研究を通じて、運動制御、軌道計画、運動学習の計算論的理解に貢献した[14]。
強化学習と意思決定
強化学習は、報酬や罰に基づいて行動方策を改善する学習理論であり、大脳基底核、ドーパミン、報酬予測誤差、選択行動のモデル化に用いられる[1][13]。銅谷賢治は、小脳、大脳基底核、大脳皮質を、それぞれ異なる学習アルゴリズムの観点から特徴づける枠組みを提案した[13]。また、神経修飾物質が学習率、割引率、探索、記憶更新などのメタパラメータを調節するという仮説も提案されている[19]。
認知計算論的神経科学とAI
認知計算論的神経科学は、認知課題を実行する計算モデルを構築し、その内部表現や処理過程を脳活動および行動データと比較する研究領域である[9]。近年は、深層学習モデル、畳み込みニューラルネットワーク、回帰型ニューラルネットワーク、Transformerなどが、視覚、言語、意思決定の神経表現と比較されることがある。ただし、人工知能モデルが高い課題成績を示すことと、生物の神経系の機構を説明することは同一ではなく、計算論的神経科学では、行動、神経活動、生物学的制約をあわせて検証することが重視される[9]。
日本における研究
日本では、神経回路網、情報幾何、視覚モデル、運動制御、強化学習、神経ダイナミクスなどの領域で、計算論的神経科学に関連する研究が行われてきた[5][4]。
甘利俊一は、神経回路網、神経場、情報幾何学などの研究で知られる。1977年の側方抑制型神経場に関する論文は、連続的な神経場におけるパターン形成を扱う代表的研究であり、後の神経場理論でも参照されている[10][11]。また、甘利は日本語の脳科学シリーズの監修などを通じて、脳の計算論的理解の普及にも関わった[5]。
福島邦彦は、視覚情報処理に着想を得た階層型神経回路モデルであるネオコグニトロンを提案した[20]。ネオコグニトロンは、位置ずれに比較的頑健なパターン認識を行う自己組織化多層モデルであり、後の畳み込みニューラルネットワークやディープラーニングの文脈でも歴史的に言及される[20]。
川人光男は、小脳の内部モデル仮説、運動制御、運動学習、脳型情報処理の研究で知られる[14]。小脳が身体や外界の力学を学習し、運動制御や軌道計画に関与するという考え方は、計算論的な運動制御研究に大きな影響を与えた[14]。
銅谷賢治は、強化学習、意思決定、神経修飾物質、脳領域間の学習アルゴリズムの役割分担に関する研究で知られる[13][19]。特に、小脳、大脳基底核、大脳皮質を、教師あり学習、強化学習、教師なし学習という計算原理から捉える提案は、脳の複数システムを学習理論の観点から整理する例である[13]。
関連分野
計算論的神経科学は、システム神経科学、認知神経科学、理論神経科学、神経情報学、ニューロモルフィック・エンジニアリング、ブレイン・マシン・インタフェース、計算精神医学などと関連する。システム神経科学が脳領域や神経回路の機能を実験的に研究するのに対し、計算論的神経科学は、それらのデータを数理モデルや計算モデルによって統合・説明しようとする[3][1]。また、神経情報学は神経科学データの共有、標準化、解析基盤に焦点を置き、ニューロモルフィック工学は神経系の構造や動作原理をハードウェアに応用する点で関連している。