力学系
一定の規則に従って時間の経過とともに状態が変化するシステム(系)、あるいはそのシステムを記述する数学モデル
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力学系(りきがくけい、英語: dynamical system)とは、ある法則に従って前の状態から後の状態が決まるように、対象とする状態が時間発展する系の数学的モデルである[1][2][3]。あるいは、そのようなモデルを扱う数学の一分野でもある[4]。力学系を扱う分野や理論全体を指して力学系理論(りきがくけいりろん、英語: dynamical system theory)という呼び方もする[5][6]。
力学系の始まりは、ニュートン力学において記述される常微分方程式の解の研究に端を発する[7]。力学系という名称自体は英語の dynamical system の翻訳だが、力学系という訳語は、こういったように力学の研究から力学系が生まれたことを背景とする[7][8]。今でも物理学の力学は力学系の重要な例だが、現在の力学系は力学から独立した一つの数学を成している[8][9]。力学系理論の対象は力学に限定されず、その範囲は極めて広い[8]。自然科学や社会科学の実現象を数理モデル化して力学系として調べることもあるし、完全に抽象的な力学系を構成して調べることもある[10]。
力学系に似た言葉として、物理学では動力学(どうりきがく)、生物学や生命科学ではダイナミクスという言葉も使われる[4]。それぞれの用語の意味は、完全には合致しないものの、物事が時間と共に変化する様子の記述という点においては軌を一にする[4]。ゲーム理論など経済学に背景を持つ分野では動学系(どうがくけい)とも呼ばれる[11][12]。
力学系の成り立ち

現代的な力学系の理論は、フランスのアンリ・ポアンカレによって19世紀末頃に創始された[13][14]。さらに遡ること17世紀、イギリスのアイザック・ニュートンは『プリンキピア』を著し、物体の運動法則を述べてニュートン力学を構築した[15]。ニュートン力学にもとづき、物体の運動は常微分方程式によって表現される[16]。ニュートンは、太陽のまわりの地球の運動を二体問題として解いて完全に解決した[17][18]。その後、多くの物理学者や数学者たちが、これを三体問題あるいは多体問題へ拡張し、解決を試みた[18][19]。しかし、三体問題は二体問題と比較してはるかに解くのが困難で、長年の努力の末に、何らかの数式で明示するという意味で三体問題を解くことは本質的に不可能であることが明らかとなった[19]。

三体問題に限らず、微分方程式の解を求めること――すなわち解を独立変数の既知関数として表すこと――は大抵の微分方程式でできない[20][21]。特に微分方程式が非線形のときには、ほとんどの場合で不可能である[22][23]。三体問題の研究を通じ、この問題を深く認識したポアンカレは、微分方程式を解析的に解く定量的方法の代わりに、微分方程式の解の挙動を定性的に研究する方法を生み出した[20]。言い換えると、解自体の記述を得ることを主眼とするそれまでの研究から、解けない微分方程式を解けないままにしながらその解の重要な性質を探求する研究へと、発想の転換を主導した[24]。このような研究を、ポアンカレは微分方程式の定性的理論と呼んだ[25]。1881年の論文 Mémoire sur les courbes définies par une équation différentielle(微分方程式によって定義される曲線についての研究論文)にて、ポアンカレは以下のように述べている[26]
さらにまた、この定性的研究自体はそれ自身としてきわめて興味ある問題である。事実、解析学や力学におけるきわめて重要な問題がこれに帰着できる。三体問題を例にとってみよう。たとえば天体の一つがつねに有限の天空内の領域にとどまっているだろうか、それとも無限に遠ざかっていくだろうか? 二つの天体の距離が限りなく増大したり減少したりするだろうか、それとも、いつもある限界の間にとどまっているだろうか? このような問題が考えられるのではないか。そしてこの種の、三つの天体の軌道を定性的に追跡することができれば完全に解けてしまうような問題は、まだいくらでも提出できるのではないだろうか。 — アンリ・ポアンカレ、Mémoire sur les courbes définies par une équation différentielle[27]
定性的理論を展開するために、ポアンカレは位相的な手法を縦横に利用した[28]。位相幾何学もまた、ポアンカレのこの研究の中から誕生していった[28][29]。微分方程式の定性的理論は現在の力学系理論の基礎となり、ポアンカレは力学系理論の創始者となった[13]。
ポアンカレの後、微分方程式の定性的理論は米国のジョージ・デビット・バーコフや帝政ロシアのアレクサンドル・リアプノフへと引き継がれ、20世紀以降大きな発展を遂げる[30]。バーコフの研究がまとめられた著書は、Dynamical Systems(力学系)という名で1921年に発行された[31]。バーコフも、ポアンカレ同様に微分方程式から定義される力学系を見ていたが、一方で、微分方程式で起こる複雑な挙動を理解する方法として写像の反復で定義される力学系についても研究・強調した[31][14]。また、バーコフは、微分方程式の解の性質から位相的性質を調べる上で必要なもののみを抜き出して、もはや微分方程式の存在を前提としないような抽象的な力学系の概念を作り上げた[32][33]。これにより、微分方程式から独り立ちした力学系理論の基礎が形成された[33]。
定義
力学系は、
の3つから成る[8][1]。ここでの時間とは、物理学における力学系を扱うときなどは文字通り時間の意味だが、数学的には単にパラメータである[34]。相空間あるいは状態空間は、何らかの変数で系の状態を表し、系が取り得る全ての状態から成る集合である[35][36]。相空間内の1点を指定することで、系の状態が一意に定まる [37]。時間発展の法則は、時間と共に状態がどのように変化するかを決めるものであり、普通は決定論的な(ある状態から次の状態が一意に決まるような)法則を与える[1]。
より数学的には、力学系は群または半群 G の空間 X への群作用 ϕ : G × X → X として与えられる[34][8]。G が時間、X が相空間、ϕ が時間発展の法則に対応する[8]。各 t ∈ G に対して t を固定した写像 ϕt : X → X を、ϕt(x) = ϕ (t, x)(ただし x ∈ X)と定義する。ϕt は、任意の t, s ∈ G および単位元 0 ∈ G について群作用の性質から、
が成り立つ[38]。ここで ∘ は写像の合成、idX は X 上の恒等写像である。条件 (2-1) は、ある状態が t + s 時間経った後に移る状態と、t 時間経った後にさらに s 時間経った後に移る状態は同じということを意味する[39][40]。
時間を連続的に考えるか、離散的に考えるかに応じて、力学系は大きく連続力学系と離散力学系とに分けられる[41]。ℝ を実数全体の集合、ℤ を整数全体の集合とすると、G = ℝ のときが連続力学系、G = ℤ のときが離散力学系である[42]。ℝ+ を非負実数全体の集合、ℤ+ を非負整数全体の集合とする。G = ℝ+ と G = ℤ+ のとき、連続力学系と離散力学系はそれぞれ非可逆な力学系となる[43]。写像 ϕt が 0 ≤ t < ∞ のみで定義されるときは半力学系とも呼ばれる[44]。
主な種類
連続力学系と離散力学系
力学系は、時間を連続的に考える場合と離散的に考える場合に大別される[41][45]。前者は時間を実数で考え、連続力学系[46][47](あるいは連続時間の力学系[46][47]・連続時間力学系[48][49])と呼ばれる。後者は時間を整数または自然数で考え、離散力学系[46][50](あるいは離散時間の力学系[46][50]・離散時間力学系[51][52])と呼ばれる。
連続力学系の場合、常微分方程式あるいはベクトル場によって与えられるのが典型的である[47][48]。 相空間を ℝm として、独立変数 t ∈ ℝ と従属変数 x ∈ ℝm の自励系常微分方程式
が与えられたとする。初期値 x = x0, t = 0 を満たす (3-1) の解を ϕt(x0) と書き表すと、解の存在と一意性が満たされるとき ϕt(x0) はただ一つ存在し、力学系の条件 (2-1), (2-2) を満たす[53]。相空間 ℝm で、各軌道上の点 x の接ベクトルは f(x) で与えられることから、常微分方程式 (3-1) は同時にベクトル場も表している[54]。
離散力学系の場合は、写像の反復または差分方程式によって与えられる[55]。相空間を ℝm として、ℝm から ℝm への写像 f が与えられたとする。x ∈ ℝm に対して f を再帰的に n 回合成して得られる f n(x) は、
と表される[56]。n = 0 のときは f 0(x) = x と定義する[57]。任意の t, s ∈ ℤ+ に対して f t + s = f t ∘ f s が成り立ち、f により離散力学系が定まる[58]。さらに f が逆写像 f−1 を持つときは、n ∈ ℤ で f n が成り立ち、同様に離散力学系が定まる[57]。同様のことは、x1 = f (x), x2 = f 2(x), …, xn = f n(x) と表せば、
という差分方程式の形で書き表すこともできる[56][59]。f が逆写像を持てば、xn−1 = f −1(xn) とすることで、n ∈ ℤ で xn が定義できる[59]。
自然現象は微分方程式で表されることが多く、理工分野では微分方程式が幅広く用いられるため、その点において離散力学系よりも連続力学系の方が考察する機会は多い[60][61]。ニュートンの運動方程式 F = ma で表される物体の運動も、連続力学系の例である[62]。離散力学系も実現象のモデルとして使われるほか、連続力学系を離散力学系の問題へと帰着させるポアンカレ写像と呼ばれる手法により連続力学系を調べるツールとしても利用される[63][64]。離散力学系独自の結果を応用・修正あるいは懸垂の手法によって対応する連続力学系の結果を得ることができる場合もあり、離散力学系の理論それ自体も美しさや独自の存在価値を持つ[65]。
位相力学系
相空間 X を一般的な位相空間とし、ϕ を連続写像とするとき、これらによって構成される力学系を位相力学系や位相力学と呼ぶ[66][67][68]。時間が連続的な位相力学系 {ϕt}t ∈ ℝ は流れとも呼ばれる[69]。ϕt が時間 ℝ+ においてのみ定義される場合は半流とも呼ばれる[70]。
上記で見たように、微分方程式から力学系の研究は始まったが、位相的な手段を使って軌道を調べるときに軌道が微分方程式で定義されていることが必ずしも必要ではない[71]。このために導入されたのが位相力学系で、歴史的にはバーコフによって基礎が築き上げられた[32][72] 。
位相力学系は力学系に課す条件を可能な限り緩めて作られており、基本的・原始的な力学系であり、包容力は大きい[73]。ただし、位相力学系の条件のみで明らかにできる軌道の性質は、位相的性質に限られる[74]。非遊走集合、極限集合、位相的推移性などが位相力学系的な概念の例である[75]。
可測力学系
相空間 X が測度空間または確率空間とする。すなわち、X にσ-集合体 F が存在し、測度 μ または確率 P が与えられているとする。変換 f : X → X が F について可測(任意の A ∈ F に対して f −1(A) ∈ F )であり、なおかつ μ について保測である(任意の A ∈ F に対して μ(f −1(A)) = μ(A) )とする。このような力学系 (X, F, μ, f) を可測力学系や測度論的力学系という[76][77]。流れ {ϕt}t ∈ ℝ が可測かつ保測変換の場合も同様に定式化される[78]。
測度論の重要な特徴は零集合を除いて議論するところにあり[79]、確率的に起き得ない事象を無視することで、系の振る舞いの漸近的な性質に対する良い見通しを得るのが可測力学系の特徴である[80]。ルートヴィッヒ・ボルツマンが提唱したエルゴード仮説を起源とし、現在では力学系の大きな一分野を成すのがエルゴード理論である[75][81]。端的には、エルゴード理論は力学系の測度論的な研究といえる[82]。歴史的にはポアンカレの回帰定理、バーコフの個別エルゴード定理、ノイマンの平均エルゴード定理などが、今日的なエルゴード理論の出発点である[83][84]。
線形力学系と非線形力学系
時間発展の法則が線形であるような力学系は線形力学系と呼ばれる[85]。一方で、時間発展の法則が非線形であるような力学系は非線形力学系と呼ばれる[85]。線形系や非線形系とも呼ばれる[86]。A を実 n-次正方行列とし、x ∈ ℝn とする。典型的には、線形の連続力学系は次のような定数係数線形微分方程式で、線形の離散力学系は次のような線形写像で与えられる[87]。
非常に大雑把に言えば、線形の方程式は比較的簡単で一般的な解く方法が確立しているのに対し、非線形の方程式は難しく一般的な解く方法もない[88]。高次元の非線形力学系には未だ充分に解明できていない現象もあり、力学系が主な研究対象とするのは非線形力学系である[89]。非線形系では、与えられた方程式がさほど複雑でないとしても、カオスのような複雑な振る舞いが起こり得る[90]。一方で、非線形力学系を理解する上でも線形力学系の理解が欠かせない[89]。非線形の常微分方程式系の平衡点または微分同相写像の不動点が双曲型のとき、平衡点または不動点の近傍の軌道は線形系と定性的に同じとなる[91][92]。
複素力学系

複素関数によって定まる力学系を複素力学系という[93]。特に正則関数または有理型関数 f を扱い、それらの n 回反復合成 f nで定義される[94]。離散力学系かつ微分可能力学系の一種だが[95][96]、複素力学系では複素関数論が主要な理論的道具として用立てられる[4]。フラクタルを生成する代表例としても知られる[95]。
複素力学系は、歴史的には1920年代のガストン・ジュリアとピエール・ファトゥの研究に始まる[97]。彼らの名を冠するジュリア集合とファトゥ集合は、複素力学系の最も基礎的な不変集合である[98]。コンピュータが発達した1980年代には、ブノワ・マンデルブロによってマンデルブロ集合が発見された[99]。マンデルブロ集合の魅力的な画像がジュリアとファトゥの仕事への興味を改めて呼び起こし、エイドリアン・ドゥアディ、ジョン・ハバード、デニス・サリヴァンなどの数学的成果が続いた[99]。
記号力学系
a, b, c,… や 1, 2, 3,… のような記号を使って無限の列を構成し、そのような記号列の集まりである空間を想定する[100]。このような記号列を右から左へ1つずらすような写像 σ を考える力学系を記号力学系や記号力学と呼ぶ[101][102]。
記号力学系それ自体もデータストレージやデータ転送のような計算機科学とも関連性を持つ[103][104]。記号力学系の高次元化も研究対象であり、2次元記号力学系は数学のタイル張り問題のワンのタイルの定式化を与える[105][104]。
ハミルトン力学系
(q1, q2, …, qn, p1, p2, …, pn) を座標に持つ相空間 ℝ2n 上でハミルトン力学の正準方程式によって定義される力学系をハミルトン力学系またはハミルトン系と呼ぶ[106][107][108]。ハミルトン系は、その性質からユークリッド空間ではなくシンプレクティック多様体上でハミルトニアンによって定まるベクトル場として考えることもできる[109]。ハミルトン系のポアンカレ写像または流れはシンプレクティック写像になるという意味でシンプレクティック写像がハミルトン系の離散力学系バージョンに相当し[110]、標準写像がよく調べられている例である[111]。
歴史的には、ニュートン力学およびラグランジュ力学を引き継いで19世紀にウィリアム・ローワン・ハミルトンによってハミルトン力学が定式化された[112][113]。その後、微分形式の発見を経て、シンプレクティック多様体上の力学系理論として現代的に定式化された[112][113]。可積分なハミルトン系に摂動が加わっても、摂動が充分に小さければ元の可積分系で存在していたトーラス上の規則的な振る舞いの多くが残ることを証明したKAM定理(定理を示したアンドレイ・コルモゴロフ、ユルゲン・モーザー、ウラジーミル・アーノルドの名に因む)は、20世紀の力学系研究における重大成果の一つである[114][2]。