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産女

日本の妊婦の妖怪 From Wikipedia, the free encyclopedia

産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本妖怪である。難産で死んだ女性の霊が妖怪化したものとされる[1]

佐脇嵩之『百怪図巻』(元文2/1737年)より「うぶめ」
鳥山石燕画図百鬼夜行安永5/1776年刊)』より「姑獲鳥」

姑獲鳥(こかくちょう、gūhuòniǎo[注 1])は、『本草綱目』にみえ、中国の怪異であるが、これに日本での伝承が合わさって語りつがれている。

名称

日本の産女・姑獲(うぶめ)は、中国の姑獲こかく[注 2]こと乳母鳥にゅうぼちょう夜行遊女やぎょうゆうじょ[注 3]に同じと、江戸期の文献でも同定される[4][5][2]

中国の伝承との同定[6][7]・習合がおこったために[8]、結果として、「姑獲鳥」の漢名を当て字として「うぶめ」と読むようになった[6]

概説

産女うぶめは、産婦が死んで妖怪と化すものである。一説では、懐妊して出産せずまま死んだ女性をそのまま埋葬し、その後に子供が生きて生まれた場合に魂魄が変化したなれの果てだという。腰より下は血に浸かって弱々しく、行きすがりの人に子を「負うてたまわれ」と請うが、拒否せずに子を抱えてやれば、なにかの恩恵(怪力を授かるなど[9][10][8])にあずかると、『奇異雑談集』(貞享4/1687年刊)にみえる[14][17]。もし逃げれば祟られて高熱を発し、死に至ることもあるという[21][6]。さらに怪談仕立てな話では、その子を抱えるとだんだんと重くなったり(石よりも重くなる等[9][23])、石塔、木の葉に変じたり[8]地蔵になったりする[24]

多くは血に染まった腰巻きを纏う姿で江戸期の絵師の妖怪画に描かれる[注 4][12][25] § 図像学参照)。上述したように、「うぶめ」は産死した婦人より生じた化生で、下血に腰下が染まった姿である、と世俗に言い伝わる[27]

中国の妖怪で、羽を脱いで女性の姿になれる怪鳥、姑獲こかくとの同一視、習合がおこった[6][8]。日本[6]、とくに九州でもカモメの姿や声をしていると伝わっており、小雨ふる暗い夜,燐火をともない出現する、と『和漢三才図会』にみえる[4][28][注 5]姑獲うぶめは産婦の死霊が鳥の形に変化したもので、子供欲しさに人の赤子を奪いにくるとも解説されている[31]

攫った子供に乳を飲ませようとする習性があり、乳母(めのと)に似るので乳母鳥にゅうぼちょうの異名があると『奇異雑談集』に説かれるが、明代の『本草綱目』に描かれる姑獲鳥こかくちょう(胸に両乳ある鳥で、「喜んで人の子を取って養い自分の子とす」[32])を参照にしている[34]

また、夜ひそかに忍び込み、子供の衣服に血の染みを残していくので、侵入された兆しと判断できる、と記される[36](これは毒性の乳を子供の衣服につけてゆくという茨城の § 地域伝承に類似する)。

ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関横綱になる由来となる大力をウブメから授かったという言い伝えになっている[37]

文献例

主馬介卜部季武が遭遇した「あやしおゝな[注 6]
月岡芳年『和漢百物語』慶応元/1865年

説話での初見とされる『今昔物語集』には源頼光の四天王の1人である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るという話があり(右図参照)[38]、産女の伝承が古くから伝わっていることが分かる[39]

すでに『奇異雑談集』(1687年])をもとに概説を上述しているが、『百物語評判』(貞享/1686年刊)にも「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」とみえ[42]、などでも扱われる[6]。この『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうと述べている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすということは、朱子の書などにも記されている[43]

寺島良安『和漢三才図会』より「姑獲鳥」(夜行遊女)

『和漢三才図会』の「姑獲鳥」の項では、中国の姑獲鳥こかくちょう(『本草綱目』に詳しい)との比較し、中国では荊州、日本では、 西国の海浜にウブメドリは出現し、九州人によれば夜しぐれが降ると、大きなカモメ似の怪異が燐火をのときにあらわれる伝説を伝える[21]。通りすがりの男に「子を負ってくれ」と依頼する[注 7]

姑獲鳥 (右)と 雪女(左)。
恋川春町『妖怪仕内評判記』安永8/1779年

黄表紙作家、恋川春町『妖怪仕内評判記』(安永8/1779年刊)では、「産女の化物は幽霊の類なり。腰より下は血に染まりて、子をいだき、往来の人に「此子を抱いてたべ」と言ふ。抱く人、めったになく、しごくおそろし」と述べる。対決相手は雪女である(右下図参照)[46][47]

考察

月岡芳年(1892年没)「幽霊之図 うぶめ」肉筆絹本

産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる[6][46]

民俗学者・柳田國男がいう様に、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、または、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬであるという。時としてその代わりに50人100人力の力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る[48]。柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている。

怪力を授かるモチーフの説話(先述、力士に出世する説話参照)に関しても、民俗学者・宮田登の解説によれば、ウブメの正体である死んだ母親に、子供を強くこの世に戻したいという強い怨念があり、死んだ子をこの世にまた「出産」するともなれば異常な大きな力が働かなければならないが、これがゆがんだ形で、男に怪力を代償に与えるとことで体現されていて、妖怪現象となっているのだとする[49][50]

上で取り上げた江戸期の文献、『百物語評判』では「執心」が形になったものであるとし、『奇異雑談集』でも同じような表現が使われている(「執心・魂魄」が変化[17][51])、と指摘される[52]

また宮田登の仕分けでは、「産女」は、夜の辻道や橋の袂に出現するのが常であるが、産女の亜種である濡れ女は、海辺に出現し、やはり子を抱いてくれと求めて応じると重くなる。違うのは、濡れ女がいなくなり、牛鬼が現れて襲うというところである。赤子は重い石となって手に吸い付きはなれなく、逃げることがかなわない[10]。ただ、上述したように『和漢三才図会』「ウブメドリ」の項では、西国の海浜(九州)に出現するとしていることも[21]、念頭に置くべきであろう。

南方熊楠は、燐光を放つ鳥として、『和漢三才図会』記載の九州のウブメドリや、青鷺火などの例を挙げ、中国には見ない、日本特有の伝承だとしている[20]。参考例に、林羅山道春著『梅村載筆』天巻:"夜中に小児の啼き声のようなるものを、うぶめと名づくといえども、それをひそかに伺いしかば、青鷺なりとある人語りき"を挙げる[20][11]

地域伝承

水木しげるロードに設置されている「姑獲鳥」のブロンズ像

佐賀県西松浦郡熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという[53][54](同じ九州でも長崎県御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという。船幽霊#各地の船幽霊を参照)。

長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、 若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する[55]。産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各4本ずつあるように見えるという[56]

愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという[53]ノツゴの一種ともいわれる[57]

茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという[58][59][44]

磐城国(現・福島県宮城県)では、海岸から龍燈龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる[60]

長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという[61]

石川県加賀騒動実記もののなかにも言及がある。真如院の最期のみぎりから、空き屋敷に怨念のような声がし、怪しい気配がし、その後の空き屋敷にも続き、さらに死んだはずの真如院の姿をした幻も目撃された。弓の使い手に命じて、鳥が討ち取られたが、鷺に似るが誰も見たことのない種類だったという。そのころから屋敷以外のいたるところで鳥の奇声が聞こえており、総じて「憂婦女鳥うぶめどり」と呼びならわされた。金沢大火の後、出現しなくなったという[62][63]

オボ

福島県南会津郡檜枝岐村大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男はに付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという[64][65]。なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である[64]河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残るので下に紹介する。

江戸時代の事例(おぼ抱き観音伝説)

時は元禄時代のはじめ、会津は高田の袖山(現・会津美里町旭)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、五穀豊穣と子孫繁栄を福満虚空蔵尊に発願し、柳津町円蔵寺に丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織を着て新しい草鞋と身支度も万全、いつものように5里(約20km)の旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、最後の早坂峠付近にさしかかると、何故かにわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ平地2里、山道3里の道中で、ましてやこの刻(午前2時ころ)、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女(妖女)かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら、自分の羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて東の空が白みはじめるころ、やっと女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことのみが続いて、金銀があふれるように大分限者(長者)になり、のちにこの早坂峠(現柳津町森林公園)におぼ抱き観音をまつったのである。なお、円蔵寺のおぼだき観音伝説にも詳しい。

近年の事例

1984年(昭和59年)5月15日の午前7時25分、静岡市(現・静岡市葵区)産女(うぶめ)の県道で女性が運転する乗用車が集団登校中の児童の行列に突っ込み、児童数人を跳ね飛ばしてガードレールに激突した。加害者の証言によると、三つ辻の道路の左側に変な老婆が立っており、避けようとして事故になったと答えた。だがこの事故を目撃した児童はオートバイを追い越そうとして事故になったと証言し、老婆のことには言及していない。その土地は古来から産女新田と呼ばれていて、地名の由来は江戸時代に牧野喜藤兵衛という漂泊の者の妻が妊娠中に死に、その霊が何度も現れたため、その怨念を鎮めるため村人が産女明神として祀ったという縁起である。現在、産女明神には子安観音が安置されており、近隣の女性たちの安産の守護霊になっている[66]。この交通事故について民俗学者・宮田登は、産女という名の土地に現れた妖怪・ウブメが働きかけたことが事故の原因であり、ウブメのような妖怪変化があらわれる辻のもつ霊的な力が民間伝承として現代に出没していると語っている[66]

東京都では、足立区の六ツ木交差点で交通事故に遭った産婦が、赤子を抱いた姿の霊となって現れ車を止めたといい、産女の目撃談とされた[67]

図像学

佐脇嵩之『百怪図巻』(元文2/1737年)に「うぶめ」図があるが(冒頭画像参照)、絵巻のあとがきによれば狩野元信(1476–1559)の現本を模したものであるとする[46]鳥山石燕画図百鬼夜行安永5/1776年刊)』にも「姑獲鳥(うぶめ)」が描かれるが[12]、石燕は、狩野元信の『百鬼夜行』[注 8](や山海経)を参照したと述べている[68]

脚注

参考文献

関連項目

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