田結穣

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 (1977-06-28) 1977年6月28日(87歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1945年
田結 穣たゆい みのる
海軍中将・田結穣
生誕 1890年1月20日
日本の旗 日本 岐阜県安八郡大垣町
死没 (1977-06-28) 1977年6月28日(87歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

田結 穣(たゆい みのる, 1890年明治23年)1月20日 - 1977年昭和52年)6月28日)は、日本海軍軍人海兵39期次席・海大23期首席。最終階級は海軍中将

岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)出身。岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後に第一高等学校に進んだが中退し、海軍兵学校に入校した(兵39期)。入校席次は11位/150名、卒業席次は次席/149名で恩賜の短剣を拝受。

田結は艦船勤務を経てイギリス駐在となるが、主要国への駐在任務は海軍大学校甲種学生を卒業後に行われるのが慣例で、井上成美などの例はあるものの、異例の人事であった。

帰国後、海大23期を首席/22名で卒業して恩賜の軍刀を拝受。

1933年(昭和8年)に軍令部第1部部員(甲部員)に補された。甲部員は第1部長直属部員とも呼ばれ、太平洋戦争指導は該職が行ったが、甲部員制度自体が海軍部内ですら極秘の存在[要出典]のため、現在に至るも殆ど該内容の解明がなされていない。日本海軍研究の空白が生じる部門の1つである。甲部員について証言を残した者は、大野竹二大井篤だけだったと言って過言では無い。

1945年(昭和20年)1月、第一南遣艦隊司令官兼第十三航空艦隊司令官の任を全うして本土に帰還。同月31日には、藤田利三郎木村昌福とともに昭和天皇に拝謁し、軍状を奏上する機会を賜った[1]。その後、田結は敗戦によって同年11月に海軍官制が廃止されるまで現役であった。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

親族

長男の田結保は兵71期を首席で卒業し、重巡筑摩」分隊長としてレイテ沖海戦で戦死した(最終階級は海軍大尉)[3]

2人の娘は、それぞれ佐々木富二男(兵59期、戦死、最終階級は海軍中佐)と永井昇(兵59期、最終階級は海軍中佐)に嫁いだ[3]

年譜

※ 本節の出典は、特記あるものを除き、秦 2005, pp. 223–224, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:田結穣

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI