田総元里

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田総 元里(たぶさ もとさと、旧字体: 田總 元里)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備後国甲奴郡田総庄[注釈 1]川平山城を本拠とした国人[2][6]毛利氏に属する。通称は「宗左衛門尉」。父は田総俊里

生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:宗左衛門尉[1]
概要 凡例田総 元里, 時代 ...
 
田総 元里
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:宗左衛門尉[1]
官位 遠江守[1]受領名
主君 大内義隆義長毛利隆元輝元
氏族 大江姓長井氏田総氏[2]
父母 父:田総俊里[1]
山内直通の娘[3]
元勝[1]与右衛門[4]、女(阿曽沼広秀室)[5]
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生涯

備後国甲奴郡田総庄[注釈 1]川平山城を本拠とした国人田総俊里の子として生まれる[2][6]

天文13年(1544年3月11日尼子氏の軍勢が田総庄に侵攻したが、毛利氏の援軍により撃退に成功する[7][8][9]。尼子軍の侵攻を撃退した功により、天文17年(1548年2月28日大内義隆から高尾中務大輔の先知行だった備後国神石郡福永[注釈 2]の内の200貫の地を与えられる[10][11][12]

天文22年(1553年)、備後国に尼子氏の勢力が及び出し、大内方の高尾某が守る備後国神石郡福永城に尼子軍が来襲すると、大内義長の命を受けた毛利元就弘中隆兼10月2日安芸国人らを率いて備後国三次郡伊多岐に出陣し、尼子軍を撃退[13]。戦後、元就は四郎左衛門尉、岡七郎兵衛尉に高尾某を助けて福永城を守るように命じて帰国した[13]。同年10月11日に大内氏奉行人波多野興滋青景隆著陶隆満が笠井某を使者として、福永における戦勝を賞し、委細は元就から伝達する旨の連署状を元里に送っている[14][10]

弘治3年(1557年12月2日毛利元就隆元父子と毛利氏に属する備後国の諸領主16名が連名で軍中で狼藉を行った者に対する処罰や陣払いの禁止を誓約した傘連判状形式の起請文に「田總宗左衛門尉」と署名した[注釈 3][15][16]

永禄12年(1569年2月13日、前年に征夷大将軍となった足利義昭への御祝儀として送る金覆輪の太刀一腰と一疋を用意し、毛利輝元から礼状を送られる[17][18]

天正3年(1575年)、備後国甲奴郡安田西福寺を建立する[17]

その後の動向や没年は不詳だが、寛永13年(1636年6月8日萩藩士の長井七郎右衛門が、田総に在住する田総孫右衛門に宛てた書状によると、元里は備後国甲奴郡安田において死去したと伝えられている[19]

脚注

参考文献

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