疋田就長の前半生については史料が乏しいが、通称「疋田九兵衛尉」として名が見え、天正17年(1589年)に豊臣秀長の主導で実施された九州国分の際には、豊前国・豊後国の検地を担当したことが記録されている。『毛利輝元上洛日記』によれば、輝元の供応役に父親の源左衛門、子の半吉の名もあり、親子で秀長に仕えていたようである。
『黄薇古簡集』によれば、天正16年(1588年)正月、黒田孝高と大友義統の間に境界争論が生じた際、福智長通・伊丹甚太夫とともに就長が仲裁にあたったとされる。豊臣政権下での九州支配の調整において、就長が一定の政治的役割を担っていたことがわかる。
さらに天正17年(1589年)10月7日には、疋田就長と福智長通が大友義統に対して、豊後国内の検地徹底や在国衆の守備強化、妻子・従者の京都在住を求める秀吉の命令を「内々の沙汰」として伝達した。この書簡では、毛利輝元をはじめとする諸大名が妻子を京都に滞在させていること、秀長自身も「御内様」を聚楽第に置いていることを示し、大友家にも同様の措置を取るよう強く催促している。また、秀吉の大和・四国巡幸、美濃国検地、北条氏政の上洛予定など中央政権の近況も花岳斎へ報告しており、就長が秀長の政務連絡を担ったことがうかがえる。
天正18年(1590年)11月26日には、羽柴秀長が河内国天野山金剛寺の三綱に対し、所労見舞いとして「札守」を下賜した際、その伝達と実務処理を就長(疋田右近)が任されたことが『金剛寺文書』に見える。秀長家中において就長が対寺社関係の実務を扱う地位にあったことを示す。
また、天正年間に秀長が豊前国法然寺に寺領一町を免許した際、寺側が唐土文台を献上し、それに対する返礼として疋田九兵衛が礼状を送ったと『紀伊続風土記』が記す。このことから、就長が秀長政権の文書行政にも深く関わっていたことがわかる。