福智長通の前半生については明確でないが、天正10年(1582年)の書状では福智三河守通長と署名しており、この時期には秀長の政務に深く関与していたことが確認できる[要出典]。
天正15年(1587年)の九州征伐では秀長に従って九州へ出陣した。島津氏が和睦を求めた際、秀長の命を受け、伊集院忠棟とともに太平寺の秀吉本陣に赴き、島津側の降伏を取り次いだと伝えられる。同年5月13日には、桑山重晴とともに秀長軍の先陣を務め、高原(宮崎県)まで進軍した長通が島津義珍(義弘)に宛てて書状を送った記録も残る。
また、九州平定の最終局面では、島津義久が鹿児島へ退き、義弘が真幸へ戻った段階で、秀長は島津側の降伏条件を受理し、家臣の長通に島津忠棟を伴わせて秀吉本陣で正式な許しを得させた。その後、秀長軍は都於郡から野尻へ前進し、豊臣政権による九州支配体制を固める役割を担った。
翌天正16年(1588年)正月、『黄薇古簡集』によると、黒田孝高と大友義統との間で境界争論が生じた際、伊丹甚太夫・疋田就長とともに長通がその仲裁にあたった。この時期、長通が豊臣政権下での九州統治に深く関わる実務官僚的な役割を果たしていたことがうかがえる[要出典]。
さらに天正17年(1589年)10月7日には、羽柴秀長家臣の疋田就長とともに大友義統へ使者として赴き、豊後国内の検地徹底、在国衆の守備強化、そして妻子・従者の京都在住を求める秀吉の命令を「内々の沙汰」として通知した[要出典]。
天正年間には曲音、池田秀雄、尾崎喜助、横浜一庵、桑山貞晴、多賀常則、多賀秀種、多羅尾光信、羽田忠右衛門らと共に松屋久政の茶会に参加している。