白井光太郎
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1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業[1]。
卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した[1]。
1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。この際白井は、日本でほとんど研究が進んでいなかった植物寄生菌の写生図や標本を多数持参し、ヨーロッパで記載されている種と比較を行って、種の確定や新種記載といった研究の進展に大きく貢献した[4]。
帰国して5年後の1906年に、東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これを担当[1][4]。翌年同大学の教授となった。1910年に理学博士を授与される。なお1915年から1919年までは東京農業大学の教授も兼任していた[1]。
1916年に奈良県吉野山で「吉野名山の保護について」と題した地域一帯の自然保護を訴える講演を行う。白井は1895年から大台ヶ原で植物調査を行っており、地域一帯で製紙会社による大規模な森林開発に危機感を抱いていたことが背景にあった。この講演は、地元の岸田日出男などを動かし、1936年に吉野熊野国立公園の指定に結びつけた[5]。
1920年に日本植物病理学会を設立し、同会初代会長に就任した[4]。1929年に東京帝国大学を定年退官し[1]、1932年に死去[4]。死因は平常より強壮薬として服用していた附子による中毒死であった[6]。墓所は荒川区西日暮里の南泉寺。
