高校百校新設計画
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背景
日本の学校教育は戦後、高校三原則によって、高校進学を希望する者は全てを受け入れられるのが理想として掲げられるようになった。一方で、高校進学希望者全てを受け入れられる余裕がなかったため、選抜を行う必要があり学力検査が行われることとなった[1]。高校進学率は1950年は42.5%程であったが[2]、高度経済成長期に入ると高校進学率は上がることなった。1961年には進学率は6割を超え、1965年には7割を超えた[3]。
このような中、第一次ベビーブームの世代が高校に入学することとなり、1960年代には後期中等教育の保障を求める高校全入運動が全国的に行われるようになった[4][1]。県ではこれに対応するため、1962年、磯子工業高校、向の岡工業高校、相模台工業高校、小田原城北工業高校を新設し[5]、1963年と1967年には県立技術高等学校[注 1]が計7校開校[6]。外語短大附属高校[注 2]や二俣川看護福祉高校[注 3]のような新しいタイプの職業高校も新設した[7]。また、県は1972年から1975年にかけて高校を14校新設する方針を示した[7]。
この高校全入運動が盛んな中、1970年代には第二次ベビーブームによる高校進学者が課題となった。この課題は特に高度経済成長により人口が急増した都市圏で大きかったとされる[8][9]。潮木守一はこの課題をいち早く指摘し、神奈川、埼玉、大阪では100校以上の高校新設が必要であり、各府県で毎年200億円前後の費用が必要であると見込んだ[8]。神奈川県ではこの課題を解決するため、14校の新設から100校を新設するという方針に変更し、「15の春を泣かせるな[10]」をキャッチフレーズに高校新設を行うこととなった[11][8]。
高校新設の経緯
高度経済成長の時期の神奈川県は、他県からの人口流入や第二次ベビーブームにより出生数が増加していた。一方で、全日制高校の進学率も生活水準の向上や高学歴志向により上昇していた。このため1972年から1975年の間に高校を14校を新設する計画が立てられた。これが高校十四校新設計画である。この計画は1972年に松陽高校、座間高校、厚木商業高校、1973年に旭高校、港南台高校、藤沢工業高校の計6校を新設することで打ち止めとなった[11]。
1973年、オイルショックが発生し高度経済成長は終わりを遂げた。このため県は経済ではなく福祉を優先した地域社会を作ることを基本に起き、教育を柱の一つに据えた。また、1972年から1985年にかけて神奈川県の中学校卒業者が二倍以上となることが予測された。このうち95%が全日制高校に進学する計算だと、既存の高校に加えた百校が必要になると見積もられた。このため、高校十四校新設計画を引き継ぎ、新総合計画として百校計画が行われることとなった。百校計画とはこの新総合計画と後の新神奈川計画での高校の新設のことである。新総合計画は1973年から1977年にかけて行われ、34校が新設された[12]。
1977年、経済停滞や都市問題などの多くの課題が顕在化してきた。このため、新総合計画を見直し中学校卒業者の93%が全日制に進学すると見積もった。このため、計画の時期をずらし1977年から1985年の間に61校新設し、新総合計画と合わせて95校の高校を新設することと決めた。これが新神奈川計画である。なお、この計画は1980年に見直され、高校進学率を91%とするとともに1984年までに計89校を作ることとなった[13]。
1983年は丙午の影響により、中学校卒業生が大幅に増加することが見込まれ、この年には14校が開校した。1984年以降も高校は新設され1987年に新設した5校をもって計画された全ての高校が開校することとなった[14]。
用地と財政
これらの高校新設を行うために県は用地と財政という二つの課題に取り組んだ[15]。
用地
一つの高校を新設するのに必要な用地は約33,000㎡(約1万坪)であり、都市化や地価の高騰が進行している神奈川県では困難であった。このため、以下のことを県では取り組んだ[15]。
- 市町村に対し、強力かつ積極的な協力を要請
- (市町村に対し、)県土地開発公社への協力を要請
- 利用可能な国有地の確保
- 日本住宅公団等が行う大規模開発事業に対する用地確保の要請
- 民間ディベロッパーへの協力要請
財政
この計画を通してかかる費用は8,496億円であり、県は低成長の中法人税が激減し財政危機に陥った。この財政危機は500億円以上の赤字を計上することや、財政再建団体へ転落することも危惧された。このような中、1975年に高校百校計画を公約に掲げた[18]長洲知事が就任する。長洲は「二年間トンネル論」を打ち出し徹底した節約と多額の県債借り入れを行い54億円の赤字に抑えることができた[19]。
一方で、高校建設を長期的に進める資金を確保するため、高校建設に対する国庫補助制度の確立を国に対して要望した。この補助制度は1976年度から1988年度まで行われ、計約322億円の財政が確保された。また、法人県民税と法人事業税に超過課税を導入した。この増収分のうち法人県民税約550億円のほぼ全額と法人事業税約1,420億円の一部を高校建設の財源とした。この他約3,368億円分の県債を発行し、高校授業料も600円から1,800円に値上げした[19]。
特色のある学校づくり
当時の高校は一部の生徒を対象にしていたものからほとんどの生徒を対象とするものへ変革している過渡期であった。このため、高校に入る生徒の能力や適性も多様化していった。これに対応し、生徒の実態に応じた教育を提供するため、高校にも特色をつけていった[20]。
また特色づくりは高校が受験のためのものとなってしまい、ランクで分けられてしまうのを防止する意味も持っていた。長洲は「個性があれば格差はない。みんな無個性だから、序列ができてしまうと思うんです。」と語っている[21]。
文化のための1%システム
県は高校建設を行う上で「文化のための一%システム」を導入した。これは行政に文化的視点を取り入れる政策の一環であるとともに、生徒の多彩な学校生活に配慮したものである。建設費の1%を上乗せすることで各々の高校に特色をつける取り組みである[22]。1978年度新設の瀬谷西高校、柿生西高校、二宮高校、厚木北高校から始まり[注 5]、それ以降に新設した高校に導入された[23]。県は「文化のための一%システム」を以下のように区分している[24]。
- 建築造形美の創造
- 大船高校の鎌倉建築をモチーフとした外観や、岸根高校の洋風な外観、有馬高校の連子格子と寄棟屋根を用いた和風な外観などがこれにあたる[24]。
- 潤いとゆとりの空間づくり
- 瀬谷西高校の「思索のプロムナード」や大原高校の和風庭園のある図書館などがこれにあたる[24]。
- シンボルづくり
- 新栄高校や相模大野高校のシンボルタワーや二宮高校、大井高校、柿生西高校の時計台がこれにあたる[24]。
- 装飾による工夫
- 新磯高校の土地から出土した土器をモチーフとしたレリーフや荏田高校のスポーツをモチーフとしたレリーフなどがこれにあたる[24]。
- 地域環境との調和
- 氷取沢高校や岩戸高校の山並みとの調和を図った傾斜屋根や釜利谷高校の敷地周辺の生垣化などがこれにあたる[24]。
- 自然環境との調和
- 海老名高校や大和東高校のアプローチの並木化や茅ヶ崎西浜高校の松林との融合を図った校舎配置などがこれにあたる[24]。
- 洋風な外観が取り入れられた岸根高校
- 鎌倉建築をモチーフとした大船高校
- 特徴的な時計台のある二宮高校
- 特徴的な時計台のある大井高校
- 特徴的な傾斜屋根の氷取沢高校
- アプローチに並木が植えられている海老名高校
- 周辺に松が植えられている茅ヶ崎西浜高校
個性化推進事業
個性化推進とは高校によって教育内容を変えることで、画一的にではなく生徒の実態に応じた教育を提供することである[25]。個性化推進の取り組みとして以下のことが挙げられている[26]。
- 国際理解教育の推進
- 普通科における職業教育の展開
- 自然科学、理科教育の展開
- 情報科学教育の展開
- 体育、スポーツ活動
- 地域郷土学習の推進
この個性化推進事業の中心となる学校が個性化設備広域利用推進校である。これには天体観測室の設置した秦野南が丘高校と海洋科学教室を設置した湯河原高校が指定された[27]。
また、新構想高校として弥栄東高校と弥栄西高校が設置された[27]。両校は同じ敷地内にあり運動場、図書館なども共有していた[28]。弥栄東高校に美術コースと音楽コース、弥栄西高校に体育コースと外国語コースを設置し、両校の生徒は2学年、3学年に自由選択科目としてどちらの学校の授業を取ることができた[27]。この新しい形態の学校は「双子高校」として話題となったものの[28]、両校は2008年に統合して弥栄高校として一つの高校になった[29]。
結果
1987年までに百校が新設され、計画された高校全てを開校することができた。これにより、神奈川の公立高校の数は52校から152校となった[30]。普通科校の生徒数、普通科の学科数はそれぞれ1972年から1989年にかけて約2.5倍に拡大した一方[31]、職業科校は計画最初の1973年に開校した藤沢工業高校の一校のみとなっている[32]。この結果、高校の職業科率は約1割減少する[31]こととなり、1989年の職業科率は12.0%と全国で一番低い県となった[30]。
この普通科の高校を多く作った理由を県は「地域住民の普通科志向」が高まっていたためだとしている一方で、本田と堤はこの理由に加えて、職業高校を作る余裕が県の財政になかったことを指摘している[32]。
『日本経済新聞』の記事でも、県が普通科を多く新設した背景として、施設整備のコストが低かったことを挙げている。加えて同記事では、労働市場において事務職の需要が高まり、専門性よりも普通科の学力が重視されるようになったことも理由として挙げられている[10]。
名古屋大学名誉教授の寺田盛紀は職業科が少なかった理由として「専門性の習得を大学や企業に任せる傾向が強まった」ことを指摘している[10]。
新設された高校
百校計画により新設した高校は以下の通り。主な出典は『伸びゆけ若者たち 高校百校計画達成の軌跡』(148-149頁)であり、再編状況については各出典に基づく。
| 開校年 | 学校名(当時の名称) | 統合・再編等の経緯 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1973年 | 旭 | ||
| 1973年 | 港南台 | 2009年に上郷高校と統合し横浜栄高校となる。校地は旧上郷高校を使用。 | [33] |
| 1973年 | 藤沢工業 | 2003年に大船工業技術高校と統合し藤沢工科高校となる。校地は旧藤沢工業高校を使用。 | [34] |
| 1974年 | 市ケ尾 | ||
| 1974年 | 瀬谷 | 2023年に瀬谷西高校と統合し横浜瀬谷高校となる。校地は旧瀬谷高校を使用。 | [35] |
| 1974年 | 清水ヶ丘 | 2004年に大岡高校と統合し横浜清陵総合高校(現・横浜清陵高校)となる。校地は旧清水ヶ丘高校を使用。 | [34] |
| 1974年 | 川崎北 | ||
| 1974年 | 藤沢西 | ||
| 1974年 | 麻溝台 | ||
| 1975年 | 霧が丘 | ||
| 1975年 | 金井 | ||
| 1975年 | 野庭 | 2003年に横浜日野高校と統合し横浜南陵高校となる。校地は旧横浜日野高校を使用。 | [34] |
| 1975年 | 百合丘 | ||
| 1975年 | 鶴嶺 | ||
| 1975年 | 城山 | 2023年に相模原総合高校と統合し相模原城山高校となる。校地は旧城山高校を使用。 | [35] |
| 1975年 | 七里ガ浜 | ||
| 1976年 | 白山 | ||
| 1976年 | 舞岡 | ||
| 1976年 | 富岡 | 2004年に東金沢高校と統合し金沢総合高校となる。校地は旧富岡高校を使用。 | [34] |
| 1976年 | 柿生 | 2004年に柿生西高校と統合し麻生総合高校となる。校地は旧柿生西高校を使用。 | [34] |
| 1976年 | 津久井浜 | ||
| 1976年 | 伊志田 | ||
| 1976年 | 上溝南 | ||
| 1977年 | 新羽 | ||
| 1977年 | 中沢 | 2004年に都岡高校と統合し横浜旭陵高校となる。校地は旧都岡高校を使用。 | [34] |
| 1977年 | 岡津 | 2008年に和泉高校と統合し横浜緑園総合高校(現・横浜緑園高校)となる。校地は旧岡津高校を使用。 | [33] |
| 1977年 | 磯子 | 2020年に氷取沢高校と統合し横浜氷取沢高校となる。校地は旧氷取沢高校を使用。 | [35] |
| 1977年 | 生田東 | ||
| 1977年 | 藤沢北 | 2004年に長後高校と統合し藤沢総合高校となる。校地は旧長後高校を使用。 | [34] |
| 1977年 | 五領ヶ台 | 2009年に神田高校と統合し平塚湘風高校となる。校地は旧神田高校を使用。 | [33] |
| 1977年 | 足柄 | ||
| 1977年 | 上鶴間 | ||
| 1977年 | 綾瀬 | ||
| 1977年 | 大和南 | ||
| 1978年 | 田奈 | 2026年に麻生総合高校と統合し青葉総合高校となる。校地は旧田奈高校を使用。 | [35] |
| 1978年 | 瀬谷西 | 2023年に瀬谷高校と統合し横浜瀬谷高校となる。校地は旧瀬谷高校を使用。 | [35] |
| 1978年 | 柿生西 | 2004年に柿生高校と統合し麻生総合高校となる。校地は旧柿生西高校を使用。 | [34] |
| 1978年 | 逗葉 | 2023年に逗子高校と統合し逗子葉山高校となる。校地は旧逗葉高校を使用。 | [35] |
| 1978年 | 寒川 | ||
| 1978年 | 二宮 | ||
| 1978年 | 橋本 | ||
| 1978年 | 厚木北 | ||
| 1979年 | 荏田 | ||
| 1979年 | 保土ヶ谷 | ||
| 1979年 | 汲沢 | 2003年に豊田高校と統合し横浜桜陽高校となる。校地は旧汲沢高校を使用。 | [34] |
| 1979年 | 東金沢 | 2004年に富岡高校と統合し金沢総合高校となる。校地は旧富岡高校を使用。 | [34] |
| 1979年 | 川崎南 | 2004年に川崎高校と統合し川崎高校となる。校地は旧川崎高校を使用。 | [34] |
| 1979年 | 大清水 | 2010年に藤沢高校と統合し藤沢清流高校となる。校地は旧大清水高校を使用。 | [33] |
| 1979年 | 相武台 | 2010年に新磯高校と統合し相模原青陵高校となる。校地は旧相武台高校を使用。 | [33] |
| 1979年 | 海老名 | ||
| 1980年 | 寛政 | 2004年に平安高校と統合し鶴見総合高校となる。校地は旧平安高校を使用。 | [34] |
| 1980年 | 都岡 | 2004年に中沢高校と統合し横浜旭陵高校となる。校地は旧都岡高校を使用。 | [34] |
| 1980年 | 豊田 | 2003年に汲沢高校と統合し横浜桜陽高校となる。校地は旧汲沢高校を使用。 | [34] |
| 1980年 | 和泉 | 2008年に岡津高校と統合し横浜緑園総合高校(現・横浜緑園高校)となる。校地は旧岡津高校を使用。 | [33] |
| 1980年 | 大岡 | 2004年に清水ヶ丘高校と統合し横浜清陵総合高校(現・横浜清陵高校)となる。校地は旧清水ヶ丘高校を使用。 | [34] |
| 1980年 | 住吉 | ||
| 1980年 | 大楠 | 2020年に横須賀明光高校と統合し横須賀南高校となる。校地は旧横須賀明光高校を使用。 | [35] |
| 1980年 | 茅ヶ崎西浜 | ||
| 1980年 | 神田 | 2009年に五領ヶ台高校と統合し平塚湘風高校となる。校地は旧神田高校を使用。 | [33] |
| 1980年 | 湯河原 | 2008年に小田原城東高校と統合し小田原総合ビジネス高校(現・小田原東高校)となる。校地は旧小田原城東高校を使用。 | [33] |
| 1980年 | 大沢 | 2003年に改編し相模原総合高校となる。校地は旧大沢高校を使用。 | [34] |
| 1980年 | 厚木南 | 全日制。2003年に改編し厚木清南高校となる。校地は旧厚木南高校を使用。 | [34] |
| 1981年 | 秦野南が丘 | 2008年に大秦野高校と統合し秦野総合高校となる。校地は旧秦野南が丘高校を使用。 | [33] |
| 1981年 | 大和東 | ||
| 1981年 | 栗原 | 2009年にひばりが丘高校と統合し座間総合高校となる。校地は旧栗原高校を使用。 | [33] |
| 1983年 | 平安 | 2004年に寛政高校と統合し鶴見総合高校となる。校地は旧平安高校を使用。 | [34] |
| 1983年 | 岸根 | ||
| 1983年 | 新栄 | ||
| 1983年 | 上矢部 | ||
| 1983年 | 上郷 | 2009年に港南台高校と統合し横浜栄高校となる。校地は旧上郷高校を使用。 | [33] |
| 1983年 | 氷取沢 | 2020年に磯子高校と統合し横浜氷取沢高校となる。校地は旧氷取沢高校を使用。 | [35] |
| 1983年 | 大師 | ||
| 1983年 | 菅 | ||
| 1983年 | 初声 | 2004年に三崎高校と統合し三浦臨海高校となる。校地は旧初声高校を使用。 | [34] |
| 1983年 | 大船 | ||
| 1983年 | 長後 | 2004年に藤沢北高校と統合し藤沢総合高校となる。校地は旧長後高校を使用。 | [34] |
| 1983年 | 大井 | 2026年に小田原城北工業高校と統合し小田原北高校となる。校地は旧小田原城北工業高校を使用。 | [35] |
| 1983年 | 有馬 | ||
| 1983年 | 愛川 | ||
| 1983年 | 綾瀬西 | ||
| 1983年 | 弥栄東 | 2008年に弥栄西高校と統合し弥栄高校(現・相模原弥栄高校)となる。校地は両校のものを使用。 | [29] |
| 1983年 | 弥栄西 | 2008年に弥栄東高校と統合し弥栄高校(現・相模原弥栄高校)となる。校地は両校のものを使用。 | [29] |
| 1984年 | 元石川 | ||
| 1984年 | 釜利谷 | ||
| 1984年 | 麻生 | ||
| 1984年 | 久里浜 | 2008年に岩戸高校と統合し横須賀明光高校となる。校地は旧久里浜高校を使用。 | [33] |
| 1984年 | 大原 | 2009年より中等教育学校(平塚中等教育学校)へ移行に伴い、2014年に廃校。 | [33] |
| 1984年 | 厚木西 | ||
| 1985年 | 湘南台 | ||
| 1985年 | 相模大野 | 2009年より中等教育学校(相模原中等教育学校)へ移行に伴い、2014年に廃校。 | [33] |
| 1986年 | 永谷 | ||
| 1986年 | 岩戸 | 2008年に久里浜高校と統合し横須賀明光高校となる。校地は旧久里浜高校を使用。 | [33] |
| 1986年 | 深沢 | ||
| 1986年 | 大和西 | ||
| 1986年 | 新磯 | 2010年に相武台高校と統合し相模原青陵高校となる。校地は旧相武台高校を使用。 | [33] |
| 1987年 | 城郷 | ||
| 1987年 | 六ツ川 | 2008年に外語短期大学付属高校と統合し横浜国際高校となる。校地は旧六ツ川高校を使用。 | [33] |
| 1987年 | 秦野曽屋 | ||
| 1987年 | ひばりが丘 | 2009年に栗原高校と統合し座間総合高校となる。校地は旧栗原高校を使用。 | [33] |
| 1987年 | 相模田名 |
選抜方法
計画前は公立高校へ進学するのが難しく入試に関わる教科に授業が偏ることもあった。このため内申点が30%、ア・テスト[注 6]が20%で、入試が50%という比率で選抜する神奈川方式と呼ばれる方法が導入されていた。ここで用いられているア・テストは元々は到達度を測るために導入された試験であったが、この計画により高校が増えたため、ア・テストの結果で受験校を振り分ける進路指導へと変化した[37]。結果、ア・テストは実質、2年生から入試を行うこととなるとしてこの選抜方法は問題となり[38]、1997年度に神奈川方式は廃止された[39]。
学区
百校計画による学校数の急激な増加により、通学時間・通学距離の問題や学区間の収容力の差といった問題が生まれた。これを解決するため学識経験者や学校教育関係者を中心とした公立高等学校入学者選抜制度研究協議会を設置し、学区の改編・分割の検討を進めた。これにより、1981年に以前の9学区から16学区に改編・分割され、1学区あたりの高校数が12.7から7.3に縮小した[40]。
影響
この計画が行われる前、神奈川県では高校の進学率が75%程度であったが、計画後は90%もの進学率となった。これにより高校は旧制中学のような一部のエリート層が進学するものではなく、誰でも希望すれば進学できるものとなり、国民的教育機関化を進める先駆けとなった[43]。
一方で、この計画によって課題集中校といわれる誰でも入学できるが中退者が多く授業が成り立たない高校が生まれた[44][45]。各学区内に一つこのような学校があり、学区内で高校の格差が固定化されてしまった[46]。本田と堤はこの計画で作られた高校100校の内、99校が普通科高校であるのを取り上げ、「普通科を拡大させればその内部に入試難易度や進路等による一元的な格差が生じてくることは容易に予測できたはずである」と批判し、これにより職業教育の衰退を招き、「膨張した普通科内部」で学歴のような格差をつける動きが進行したと結論づけている[47]。
県は課題集中校をなくすため、2005年から高校を再編する県立高校改革推進計画を行っている[45]。この中にはフレキシブルスクール[48]、クリエイティブスクール[49]のように生徒の受け皿となる高校や総合学科[45]、単位制[45]、独自のコースや[45]、中等教育学校[33]のような特色を持つ高校に再編している。
また加藤は、この課題集中校は神奈川県内の公立高校の信頼を損ねることとなり、私立中学校への志向を強めることとなったと指摘している。2019年時点で神奈川県内の中学生のうち11.7%が私立中学校に在籍しており、これは全国で5番目に高い都府県である[44]。