江戸時代中期までは、江戸の市中から目黒川の西に向かう道は太鼓橋につながる行人坂が主要路となっていたが、急勾配で不便な道であった。地元の名主の菅沼権之助は新たな道を開き、その坂を新坂、道筋の目黒川に架かる橋を新橋と名付けられた[1]。権之助は幕府により刑死したが、一説には幕府に無断で道を拓いたことが罪に問われたとも伝えられる[2]。いつしか、新坂は「権之助坂」、新橋は「目黒新橋」と呼ばれるようになった。新橋(目黒新橋)の正確な架橋時期は不明であるが、古地図によると延宝年間(1673年~1680年)にはすでにこの地に橋が架けられていたようである。