下目黒
東京都目黒区の町名
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地理
目黒区東部地区に属する[5]。北で目黒一・二・三・四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。
一丁目と三丁目は坂が多い。中でも行人坂は都内屈指の急坂であり、歩行者用の手摺りが取り付けられている。
目黒駅を出発し、坂の町である一丁目を下ると目黒川で、目黒川を越すと平坦な二丁目。山手通りを越すと今度は上りになって三丁目。三丁目の先は四丁目から六丁目まで順に並び、四丁目から六丁目はおおむね平坦である。
河川
坂
地価
住宅地の地価は、2025年(令和7年)1月1日の公示地価によれば、下目黒2-10-10の地点で97万円/m2、下目黒5-16-17の地点で97万30000円/m2となっている[6]。
歴史


江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂や権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった[7]。
目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、タケノコの旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[8]。行人坂を下りて目黒川を目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他に粟餅や飴などの店が並んでいた[9]。
門前町は明治時代には行楽地から花街に変貌し、五百羅漢寺と成就院(蛸薬師)の間には多くの料亭があった。大正時代半ばからは市街地化が急速に進んだ[9]。
地名の由来
下目黒の地名は旧来の下目黒村に由来する。「目黒」の地名の由来は諸説あり定かでない。瀧泉寺に祀られる不動明王に由来するともいう。
河川
目黒川の支流である羅漢寺川が下目黒を西から東に横断していたが、1960年代後半から1980年代半ばにかけて暗渠化された[9]。また、羅漢寺川の支流である
目黒花壇・苔香園
現在の下目黒四丁目の南部に存在した、入谷川の水を利用した[9]庭園。1902年(明治35年)頃に開園し、1920年(大正9年)頃に閉園した。明治時代には向島百花園と並ぶ野趣あふれる庭園として知られていた。
目黒競馬場
現在の下目黒四丁目~六丁目付近に存在した競馬場。1907年(明治40年)開場、宅地化の波に押され1933年(昭和8年)閉場。その役割は現在の東京競馬場(府中市)に引き継がれている。
目黒通りを走る東急バス「元競馬場前」停留所近くには、目黒競馬場跡を示す戦前の大種牡馬であるトウルヌソルの銅像が建てられている。
大円寺
行人坂の途中にある大円寺は、明和九年(1772年)の江戸の大火事・明和の大火の火元になったことで知られる寺である。幕末に再建を許された大円寺は現在は都内唯一の石造り五百羅漢で知られ、五百羅漢は都の文化財になっている。本尊の釈迦如来来立像は国の重要文化財である[10]。
柳通り
下目黒二丁目を南北に貫く柳通りは、戦前に東京市が市電路線を延長するために買収した軌道敷用地であった。1944年(昭和19年)に既存の路線自体が廃止になったために戦後、そのまま道路になった[11]。
町名の変遷
| 実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) |
|---|---|---|
| 下目黒一丁目 | 1967年3月1日 | 下目黒1〜4 |
| 下目黒二丁目 | 下目黒1〜4 | |
| 下目黒三丁目 | 下目黒1〜4 | |
| 下目黒四丁目 | 下目黒1〜4 | |
| 下目黒五丁目 | 下目黒1〜4 | |
| 下目黒六丁目 | 下目黒1〜4 |
世帯数と人口
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月現在)[18]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 下目黒一丁目 | 全域 | 目黒区立下目黒小学校 | 目黒区立大鳥中学校 |
| 下目黒二丁目 | 全域 | ||
| 下目黒三丁目 | 全域 | ||
| 下目黒四丁目 | 全域 | 目黒区立不動小学校 | |
| 下目黒五丁目 | 全域 | ||
| 下目黒六丁目 | 全域 |




