相川良太

From Wikipedia, the free encyclopedia

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-01-18) 1977年1月18日(49歳)
身長
体重
183 cm
78 kg
相川 良太
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市
生年月日 (1977-01-18) 1977年1月18日(49歳)
身長
体重
183 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手三塁手
プロ入り 1998年 ドラフト3位
初出場 1999年9月16日
最終出場 2009年7月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

相川 良太(あいかわ りょうた、1977年1月18日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手外野手)。

プロ入り前

小学3年生の時に野球を始め、中学時代は福岡中央シニアで遊撃手兼投手としてプレー[1]

暁星国際高等学校では1年から三塁手のレギュラーとなり、秋は県大会決勝で市立船橋高小笠原孝を倒して優勝。3年の時は内野手兼投手としてプレーするが3年夏は5回戦で敗退し、甲子園出場はならなかった[1]

高校卒業後、首都大学野球連盟所属の東海大学へ進学。2年春には遊撃手のレギュラーとなり、秋には首位打者。4年春は大学選手権で準優勝。リーグ戦通算63試合出場、220打数69安打打率.314、33打点。ベストナイン3回[1]

1998年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから3位指名を受けて入団。

プロ入り後

プロ1年目の1999年シーズンのオープン戦は好調で新人では佐々木恭介以来27年ぶりとなる、オープン戦3試合連続ホームランを記録した[1]。しかし、1年目の一軍出場はわずか2試合に終わった。

2000年は一軍出場なしに終わった。

2001年にようやくプロ初安打、初本塁打を記録した。しかし、打撃は安定せず、故障がちであり、レギュラー定着には至らなかった。同年は近鉄が優勝を決めた9月26日の対戦で、9回表に岡本晃からリードを広げるソロ本塁打を放っている。[要出典]

2002年は64試合に出場するも不振だった。

2003年はわずか22試合の出場に留まったが、打率.340と高打率だった。

2004年シーズン最終戦で、最優秀防御率のタイトルがかかっていた岩隈久志から2回裏に本塁打を放った事で、岩隈の同タイトルを阻止した。なお、この最終戦では、4回裏に阿部健太からも同日2本目となる2ラン本塁打を放ち、これが結果的にブルーウェーブとしては最後の本塁打となった。[要出典]

同年は49試合と前年より出場機会を増やした。オフに行われた近鉄との球団合併に伴う分配ドラフトにより、2005年はオリックス・バファローズと契約。

2005年は合併したことでライバルが増え、出場機会が激減。

2006年一塁手44試合、三塁手10試合、外野手21試合と複数のポジションを兼任[要出典]して自己最多の65試合に出場し、自身初のシーズン2桁本塁打となる11本塁打を記録する。同年から妻に勧められて背番号を30から53に変更している。

2007年30本塁打を目標として、右方向への本塁打を増やしたいと週刊ベースボールのインタビューで語っていたが、ウエスタン・リーグでも打率.247と低迷。[要出典]一軍では13試合出場、3安打、0本塁打に終わった。

2008年7月25日楽天戦で、2年ぶりの本塁打を放つと、翌26日の同カードでは先制決勝3ランを放った。しかし、外野手のレギュラー争いに割って入れず1軍出場は10試合にとどまった。二軍では規定打席に到達し、チーム最多の62安打、11本塁打を記録。[要出典]

2009年も一軍出場は10試合にとどまり、二軍でも打率.246、4本塁打と結果を残せなかった。[要出典]

2010年は一軍出場がなく、二軍でも僅か28試合の出場にとどまり打率1割台の大不振に終わった。[要出典]

同年10月2日に戦力外通告を受けた。トライアウトには参加せず現役を引退。

引退後

2011年2月、元オリックスの高見澤考史が代表を務める有限会社アーデルバッティングドームに入社。

選手としての特徴

打撃優先型の選手で長打力はあるが、安定感に欠ける面がある。また、故障が多い傾向にある。[要出典]

守備は外野手をメインに、一塁手三塁手もこなす。大学時代や入団後しばらくの間は遊撃手がメインポジションだった。[要出典]

人物

夢は「相川記念館」を作ることである。[要出典]

テレビ番組『痛快!明石家電視台』に出演した際、「門限破り」と書こうとして「門限破り」と書いてしまったことがある。[要出典]

相川亮二とは同学年で名前も似ているために間違われることがあるが、血縁関係はない。ライバル意識も持っており、2002年には「横浜の相川選手より有名になる」とライバル宣言している。[要出典]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1999 オリックス 2220000000000000020.000.000.000.000
2001 62115106112640442144140401260.245.279.396.676
2002 6418817011351005602334601002414.206.258.353.611
2003 22585311183133270100510110.340.397.6041.000
2004 49142128113570351154242701252.273.312.398.710
2005 17383829300123000000081.237.237.316.553
2006 6519517522459011872610511301492.257.311.497.808
2007 1324240310040000000062.125.125.167.292
2008 10222024102116000010161.200.273.550.823
2009 10232006400101010031052.300.391.500.891
通算:10年 314807736701814212830995129193432617914.246.292.420.712

年度別守備成績



一塁三塁外野




































1999 オリックス -10000-----
2001 110001.000-5569010.986
2002 --59103621.982
2003 --17232001.000
2004 3191011.000731212.93823363011.000
2005 --10210001.000
2006 4428326225.9941041723.9132126111.964
2007 160001.000110001.00053110.800
2008 --911010.917
2009 --960001.000
通算 4930927226.9941982935.9252082981363.981

記録

背番号

  • 30 (1999年 - 2005年)
  • 53 (2006年 - 2010年)

脚注

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI