明和2年(1765年)の生まれであるが、年齢の上積みをはかり、幕府には宝暦11年(1761年)の誕生と届け出る。安永3年(1774年)8月9日、父・恕胤の嫡子となる。長兄の信胤が夭折、次兄の斉胤は病で嫡子を辞退したためである。安永6年4月1日、将軍徳川家治に御目見した。安永7年12月16日、従五位下讃岐守に叙任。天明3年(1783年)12月2日、恕胤の隠居により、家督を相続した。
天明4年1月18日、因幡守に遷任。同年12月25日、天明の大飢饉に際し、藩内の領民救済のため、幕府に金子拝借を願い出て、5千両を貸し与えられる。ただし、自宜にあるまじき願い(飢饉への備えをしていなかったのは失政である)として、出仕停止を命じられる[1]。さらに天明8年5月13日、5千両返済を延期を願い出て、出仕停止を命じられた。享和元年(1801年)3月25日に隠居し、家督は長男の樹胤が継いだ。同年4月23日、弾正少弼に転任。文化13年(1816年)に死去。