盾津飛行場 From Wikipedia, the free encyclopedia 盾津飛行場跡地(1947年)終戦約2年で滑走路の軌跡が殆ど無くなっている。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 盾津飛行場(たてつひこうじょう)は、大阪府東大阪市(旧河内市、稼働当時は中河内郡盾津町)本庄・本庄東・本庄西・本庄中、新庄南・新庄西にかつて存在していた軍用飛行場である。第二次世界大戦後、廃止・閉鎖された。現在は、大阪機械卸業団地・トラックターミナルとなっている。 戦前・戦中 1933年(昭和8年)- 国粋大衆党(笹川良一総裁)の組織する「国粋義勇飛行隊」によって[1]民間人搭乗員養成用の「(財団法人)大阪防空飛行場」(発起人:笹川良一、藤本忠兵衛)として建設開始 1934年(昭和9年) 2月 - 起工 9月 - 完成と同時に陸軍省・陸軍に寄贈され大阪陸軍飛行場として開場。盾津飛行場と呼ばれた[2] 1935年(昭和10年)10月 - ドイツからグライダー学校の校長ヒルトが来場し模範飛行を披露。関西学生航空連盟の練習場にもなっており、日本帆走飛行連盟のグライダー大会など、学生の全国大会も開催された 1939年(昭和14年) - 大学生の軍事演習地として使用された[3] 1940年(昭和15年) - 西隣に城東練兵場が移転され大阪練兵場が開設された 1941年(昭和16年) - 大阪練兵場と共に海軍に移管、滑走路を北東に拡張川西航空機、松下航空機(北河内郡住道町、現・大東市三洋町、井植歳男社長)生産の木製飛行機「明星」などの試験飛行場として使用された 当時の飛行場(概要) 総面積 - 253,800平方メートル 滑走路 - 2,460平方メートル(744メートル、填圧、平面) 誘導路 - 不明 掩体壕 - 練兵場跡に数基 格納庫 - 3棟(各234坪小型機70機格納可) 兵舎 - 教育隊舎10、寄宿舎1(隊員40名収容)、隊長宿舎、講堂兼道場、食堂、浴場 その他、発動機工場、木工場 位置座標:北緯34度41分14.42秒 東経135度36分20.86秒 / 北緯34.6873389度 東経135.6057944度 / 34.6873389; 135.6057944座標: 北緯34度41分14.42秒 東経135度36分20.86秒 / 北緯34.6873389度 東経135.6057944度 / 34.6873389; 135.6057944 戦後 1945年(昭和20年) 8月 - 終戦に伴い米軍に接収され閉鎖 11月-「緊急開拓事業実施要綱」により練兵場跡の開墾が実施された 1947年(昭和22年)4月 - 飛行場の居住施設・格納庫跡に盾津町立中学校(現東大阪市立盾津中学校)が開校 1950年(昭和25年)8月 - 飛行場跡が農地として払い下げられる 1969年(昭和44年)飛行場跡地の一部は、流通業務団地地区に指定され大阪機械卸業団地・トラックターミナルが設置された 脚注 [脚注の使い方] ↑ .大阪陸軍飛行場. 2010年12月30日 ↑ .市民から市民へ語り継ぐ戦争体験(盾津飛行場の語り部).2012年8月31日 ↑ .不明 外部リンク 東大阪マイプレ「正式名称は「大阪陸軍飛行場」 通称「盾津飛行場」」 この項目は、軍事に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。表示編集 Related Articles