真部一男

日本の将棋棋士(1952−2007) From Wikipedia, the free encyclopedia

真部 一男(まなべ かずお、1952年2月16日 - 2007年11月24日)は、将棋棋士加藤治郎名誉九段門下。棋士番号は111。東京都荒川区出身。順位戦A級2期(第47期及び第49期)。

名前 真部 一男
生年月日 (1952-02-16) 1952年2月16日
没年月日 (2007-11-24) 2007年11月24日(55歳没)
概要 真部 一男 九段, 名前 ...
 真部 一男 九段
名前 真部 一男
生年月日 (1952-02-16) 1952年2月16日
没年月日 (2007-11-24) 2007年11月24日(55歳没)
出身地 東京都荒川区
棋士情報
プロ入り年月日 1973年4月1日(21歳)
棋士番号 111
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 加藤治郎名誉九段
弟子 小林宏
段位 九段
棋士DB 真部 一男
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
通算成績 598勝614敗(.493)
竜王戦最高クラス 2組(15期)
順位戦最高クラス A級(2期)
2014年2月26日現在
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棋歴

若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人であった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。

奨励会時代から俊英として知られ、将棋愛好家のエッセイスト山口瞳が1972年に上梓した著書「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」と記述されていた。

1973年4月1日の四段昇段後は、順位戦C級2組で1期目(第28期)と2期目(第29期)が7勝3敗[注 1]。3期目となった第30期・1975年度に10戦全勝でC級1組昇級。翌第36期[注 2]も9勝1敗の好成績でB級2組[注 3]に昇級する。第39期・1979年度の順位戦でB級1組に昇級。その後8年経って第47期・1987年度に9勝3敗の成績を収め、晴れてA級八段となる。B級1組昇級のときに28歳であった棋界のプリンスは、すでに36歳となっていた。A級には通算2期在籍し、第47期は2勝7敗・第49期は1勝8敗といずれも最下位の成績で降級。

若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度の第16回早指し将棋選手権・決勝三番勝負では米長をストレートで下して優勝するなど、1980年代中頃までは米長相手に大幅に勝ち越していた。この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋を吸収できたため」という旨を著書で述べた。

一方で森安秀光をはじめとする関西勢の棋士を苦手とするなど、大一番での勝利に恵まれず、棋戦優勝も上述の早指し将棋選手権の1回のみで、タイトル棋戦の番勝負にも登場することなく棋士人生を終えた。

真部の大一番
第1期(1975年度)棋王戦・敗者復活決勝で大内延介に敗れる。
第10回(1977年度前期)早指し将棋選手権・準決勝で大山康晴を破るが、決勝で加藤一二三に敗れ、準優勝。
第8回(1977年度)新人王戦・決勝三番勝負で森安秀光に敗れ、準優勝。
第28回(1978年度)NHK杯戦・決勝で米長に敗れ、準優勝。
第40期(1982年度前期)棋聖戦で大山、森安秀光らに勝ち挑戦者決定戦に進むが、森雞二に敗れタイトル挑戦はならず。
第30回(1982年度)王座戦(タイトル戦昇格の前年)準決勝で中原誠を破るが、挑戦者決定戦で内藤國雄に敗れる。
第16回(1982年度早指し将棋選手権・決勝三番勝負で米長を2-0で破り優勝
第9期(1983年度)棋王戦・準決勝で中原を破るが、挑戦者決定戦で森安秀光に敗れ、タイトル挑戦はならず。
第32期(1984年度)王座戦・挑戦者決定戦で森安秀光に敗れ、タイトル挑戦はならず。
第10期(1984年度)棋王戦・準決勝で森安秀光を破るが、挑戦者決定戦で桐山清澄に敗れ、タイトル挑戦はならず。
第12期(1986年度)棋王戦・挑戦者決定戦で高橋道雄に敗れ、タイトル挑戦はならず。
第28期(1987年度)王位戦リーグで谷川浩司らに勝ち、谷川と4勝1敗の1位で並ぶが、プレーオフで谷川に敗れて挑戦者決定戦進出はならず。
第46期(1987年度)B級1組順位戦・最終局で勝浦修に勝ち、9勝3敗・2位の成績でA級初昇級。
第48期(1989年度)B級1組順位戦・最終局を8勝3敗・自力昇級の状態で迎えたが、福崎文吾に負けて4敗目を喫する。しかし、同星でリーグ表順位が下の森雞二も敗れたため、2位の成績でA級に復帰。森雞二を破る援護射撃をしたのは、勝っても負けてもB級2組への降級と次期B級2組リーグ表での順位(2位)が決まっていた森安秀光であった。

その後1990年頃より、原因不明の体調不良に伴い首が回らなくなるなどの症状が続き公式戦における成績が低迷、上述の第49期順位戦でA級からB級1組に降級し、翌第50期にもB級1組からB級2組に2年連続で降級、第58期にはB級2組で降級点2個を累積させC級1組に降級、第63期にはC級1組で降級点2個を累積させC級2組に降級。その間、勝ち越しの成績を修めた期はC級1組で迎えた第60期のみ(7勝3敗)であった。

2007年11月1日から2009年3月31日まで、病気療養のため全棋戦を休場することが日本将棋連盟から公式発表された[1]が、2007年11月24日、転移性肝腫瘍のため死去[2]55歳没。公式戦通算成績は598勝614敗。600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。同日付で日本将棋連盟より九段が追贈された。

幻の妙手△4二角

【33手目 ▲6七銀引まで】
△真部一男八段 持ち駒 角
987654321 
    
       
  
    
        
     
   
     
     

2007年10月30日第66期順位戦C級2組6回戦の対局(対豊島将之戦)の際は、服を着るのも大変な状態まで体調が悪化しており、対局の続行が困難として午前中(昼食休憩の直前)に33手で投了し、結果的に当局が真部の現役最後の対局となった(右図)。弟子の小林宏によると、真部は同局面で妙手「△4二角」を発見していた[注 4]が、その手を指せば相手が長考に入り次の自分の手番まで体が持たないだろうとして、同局面で投了したといい[3]、帰り際には「角打てば俺の方が優勢だと思うんだよな」と小林に述べたという[4]。後日、豊島は当局について「△4二角は指されたら絶対に長考していた」とコメントした[5]。小林は最初この△4二角の意味を分からなかったが、「午前中で投げた人がなんでこんな手を考えているのとびっくりしました」と語っており、話を聞いた翌日に将棋会館中田功に会い△4二角について言及したら広まったという[4]

その後、真部の通夜が行われた11月27日の第66期順位戦C級2組7回戦、村山慈明大内延介戦で再び同一局面が出現し、後手の大内が34手目に△4二角を指した。大内は真部の絶局を知らずに△4二角を指したと述べており、真部の生前の予測通り、△4二角を見た村山はそのまま110分もの長考を続けた[6]。当局は最終的に村山が逆転勝利を収めたが、対局後に真部の絶局の話を聞いた大内は「勝ってやらなきゃならんかったな」と語り、小林は後に「まさかあんなことが起こるとは、不思議です。大内先生に感謝したいですね。お通夜の日に現れることが奇跡です」と述べた[4]

真部の幻の妙手が弟子に伝えられていたこと、更に大内がその妙手を再現したことは、日本将棋連盟関係者や将棋愛好家の間で大きな話題となった。翌年3月に行われた将棋大賞の選考では、真部-豊島戦を名局賞に推す声が上がり、一手の価値を認められて升田幸三賞(新戦法や妙手に与えられる)の特別賞が与えられた。これまで実際に指されなかった手に升田幸三賞が与えられたことはなかったが、構想にあったことは明らかであり、「指したのも同じ」とされた[7]

棋風

元々は居飛車党であったが、1980年代後半から振り飛車党に転向した。 直線的な斬り合いよりは、手順を尽くした攻防に特徴があり、長手数の末に勝利を収めるケースが多かった。

人物

  • 若き日には端麗な容姿も手伝って「将棋界のプリンス」と呼ばれ、テレビ時代劇「銭形平次」の第521話「平次一番勝負」(1976年)に幕末の名棋士・天野宗歩役でゲスト出演するなどマスコミにもしばしば取り挙げられた。
  • 将棋番組に真部が出演すると視聴率が数パーセント跳ね上がるとバックギャモン関連の雑誌で紹介されたことがあった。
  • 1981から1983年に亘り、日本将棋連盟理事を務めた。
  • 将棋界有数の囲碁の強豪としても有名であった。B級1組で停滞していた時期には、昼は碁会所で7時間打ち、夜から翌朝まで酒を飲み続ける生活を4年ほど続けていたという[8]
  • 文筆の分野での活躍も目立ち、日本将棋連盟の月刊誌「将棋世界」に「将棋論考」を10年以上連載した。この連載によって1998年度(第10回)将棋ペンクラブ大賞の「一般部門」で大賞を獲得。連載は第111回と第112回の間、筆者の肺炎・胸膜炎のため、初めて休載を余儀なくされた(同時期には、プロ入り以降初の公式戦不戦敗も記録した)。なお、「111」は、奇しくも真部の棋士番号と同じであり、第112回(2006年7月号)の冒頭においてそのことに言及した。また、「将棋論考」から升田幸三について論じた文を集めた著書『升田将棋の世界』で、2006年度の第18回・将棋ペンクラブ大賞の著作部門大賞に選ばれた。
  • 煙草は国産のハイライト、酒はウイスキー党であった[9]。真部は1日にタバコを2箱吸うヘビースモーカーであったが、病気と喫煙との因果関係を担当医師に指摘された経緯については、真部自身が前述の連載再開後に記した。対局時でも連続的に喫煙していた。NHK杯戦や早指し将棋選手権といったテレビ対局でも、喫煙しながら指す真部の姿が放映されることが多かった。
  • 師匠・加藤治郎の著書「昭和のコマおと」(1980年出版)によると、少年期から偏食傾向があり、きゅうり以外口にしようとしなかった時期もあったとされる。
  • 草柳文惠と結婚するも、のちに離婚。
  • 振り駒の公平性(歩の裏表が出る確率は1/2より偏っているのではないか)に疑問を抱いたことから、2005年5月の棋士総会で振り駒の統計を取ることを提案。提案は受理され、日本将棋連盟は2005年7月12日から2006年7月11日までの1年間にわたって、全公式戦のうち先後があらかじめ決められていない1541局の結果を集計。結果は「歩」が多く出たのが776局(50.36%)に対し「と」が多く出たのが765局(49.64%)であった。真部は後に、この件について、将棋世界2006年9月号の「将棋論考」の冒頭で言及した。
  • NHK杯に解説役として登場した際、王手金取りがかかった局面で、「こういうのを(俗に)何て言うんでしたっけ」とのおどけた発言をもって、司会・聞き手の谷川治恵(1991~1993年度担当)を失笑させた。
  • 山田道美九段から研究会に誘われたが1回顔を出しただけで、主として芹沢博文九段の研究会に顔を出していた[10]
  • 奨励会時代『将棋世界』誌上で将来有望な若手奨励会員[注 5]とA級棋士の駒落ち戦が企画され、当時A級棋士だった花村元司飛香落ちで対局する。花村が飛車と香車を駒袋にしまおうとしたところ、真部は「なんだ、平手じゃないのか」と呟き、花村は「何をいうか、こしゃくな小僧め!さすがに私もムッときた」というが、結果は真部の完勝。このやり取りについて花村は後年「怒りながらも、将来名人になろうかという男は違うわい、と感心したのを覚えている」と自戦記の中で述懐していた[11]

弟子

棋士

さらに見る 名前, 四段昇段日 ...
名前四段昇段日段位、主な活躍
小林宏1984年8月3日 七段、一般棋戦優勝1回
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昇段履歴

主な成績

優勝

優勝合計 1回

在籍クラス

さらに見る 開始 年度, (出典)順位戦出典 ...
順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[12]
(出典)竜王戦
出典[13]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1973 28 C214
1974 29 C202
1975 30 C203
順位戦の第31-35期は回次省略
1976 36 C115
1978 37 B216
1979 38 B212
1980 39 B113
1981 40 B110
1982 41 B104
1983 42 B106
1984 43 B105
1985 44 B110
1986 45 B109
1987 46 B110 1 2組 --
1988 47 A 10 2 2組 --
1989 48 B102 3 2組 --
1990 49 A 10 4 2組 --
1991 50 B102 5 2組 --
1992 51 B201 6 2組 --
1993 52 B208 7 2組 --
1994 53 B220 8 2組 --
1995 54 B212 9 2組 --
1996 55 B211 10 2組 --
1997 56 B221 11 2組 --
1998 57 B211 12 2組 --
1999 58 B218 13 2組 --
2000 59 C102 14 2組 --
2001 60 C127 15 2組 --
2002 61 C109 16 3組 --
2003 62 C130 17 3組 --
2004 63 C117 18 3組 --
2005 64 C202 19 4組 --
2006 65 C234 20 4組 --
2007 66 C221 21 2007年11月24日死去
第66期 6回戦の実施後に死去
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。
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将棋大賞

  • 1974年度(第2回) 新人賞
  • 1976年度(第4回) 敢闘賞
  • 2007年度(第35回) 升田幸三賞特別賞、東京記者会賞 (没後受賞)

表彰

  • 現役勤続25年表彰(1997年)
  • 第10回将棋ペンクラブ大賞一般部門、大賞受賞(1998年)
  • 第18回将棋ペンクラブ大賞著作部門、大賞受賞(2006年)

家族

将棋以外のゲーム活動

著書

共著

脚注

関連項目

外部リンク

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