真里谷信応
戦国時代の大名 (1515-1552)
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概要
恕鑑の正式な嫡男であったが、誕生時には既に庶兄の真里谷信隆が後継者として立てられていたため、父が隠居したときに家督を継げなかった。そこへ信隆への家督継承に際し、父の対立者であった足利義明からの横槍が入り、一族の有力者である真里谷全方らの支持も加わると、兄を破って家督を奪った。しかし、後ろ盾であった足利義明が国府台合戦にて戦死すると、北条氏綱と手を結んだ信隆の反撃に遭って再度家督を奪われ追放された。以後は里見義堯を頼ったといわれている。
その後、信隆の後を継いだ真里谷信政が義堯に攻められると、突然、里見氏に反旗を翻してこれに抵抗して甥の信政を助ける。これは既に同族の真里谷朝信が里見氏の正木時茂に討たれて大多喜城を奪われており、里見氏の野望が真里谷氏そのものに向けられているという危機感を抱いたためであると見られる。
しかし、天文21年(1552年)11月4日には椎津城陥落のために信政が自害し、その3日後には信応も自害に追い込まれた。この年の12月14日に北条氏康が信応供養のために妙泉寺領を寄進している[1]。ただし、永禄7年(1564年)11月7日に第二次国府台合戦で戦死したとの説もある[2]。