矢野正倫
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伯耆国米子藩十八万石の大名・中村一忠[1]の重臣で三千石を賜っていた。
慶長14年(1609年)5月11日、一忠が急死する[2]と正室(家康の養女[3])[4]に子が無かったため中村家は断絶、正倫は浪人となる。
しかし一忠の急死時には、京都屋敷の側室に子が一人と(正室に遠慮して届けていなかった)、米子の側室[5]に妊娠7ヶ月の子がいた。両方とも男子だったので、正倫と彼の弟の正綱は中村家再興のため、正倫は京都の子を、正綱は米子の子を盛り立て再興の運動を始める。[6]
正倫は、中村家を断絶させた徳川家を頼らず[7]、大坂の陣が起きると「豊臣家が再び天下を獲った暁に中村家を再興させる」という条件で大坂に入城した。
大野治長隊の部隊長となった正倫は飯田家貞と共に各兵300を率いて、大坂城北東の今福の砦を任される。
1614年11月26日、今福砦を佐竹義宣軍1,500が攻撃を開始する。佐竹軍の銃撃戦に、後方の兵は臆し、先頭の後詰が動かなくなる。それを見た渋江政光・戸村義国・黒沢道家らが柵に迫り激戦となる。圧倒的兵力差の前で奮戦虚しく、正倫・家貞は討ち死にする。現在の足立区の源長寺と青山霊園に墓所が築かれた。
その後豊臣軍は木村重成・後藤基次ら援軍3,000を派遣する[8]が、徳川側の上杉景勝・堀尾忠晴・榊原康勝の軍勢1,000が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退・敗北する(今福の戦い)。