石垣島事件
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事件
1945年4月15日朝、沖縄県・石垣島の宮良飛行場を空襲した米海軍第97編成航空隊(Squadron VC-97、護衛空母「マカッサル・ストレイト」所属)のTBFが高射砲で撃墜され、3人の搭乗員(V・L・ティボ中尉、W・H・ロイド兵曹およびR・タグル兵曹[3])が落下傘により石垣島大浜海岸[4]から200メートルほどの浅い海中に降りたところを、海軍警備隊により捕獲された[5]。
海軍警備隊は、3人をバンナ岳[6]麓の海軍警備隊本部防空壕のある空地へ連行し、米軍に関する情報収集のため取調べ・訊問を行なった[7][2]。
同日夜10時頃、海軍警備隊は、3人を警備隊本部建物から150メートルほど離れた照空隊附近の荒れ地へ連行し、殺害して遺体を同地で穴に埋めた[8]。海軍警備隊の井上司令官らが3名の殺害を決定し[9]、震洋特攻隊員の幕田大尉がティボ中尉を、田口海軍少尉がタグル兵曹を日本刀で斬首・殺害、ロイド兵曹は榎本大尉の指示により、柱に縛りつけられ、20分ほどの間、50人ほどの兵士から殴打されたのち、藤中1等兵曹、成迫上等兵曹、榎本大尉ら、約40人に順番に銃剣で刺突され、死亡した[10][8]。
裁判
アメリカ軍横浜裁判(米陸軍第8軍管轄)で海軍警備隊の司令官・井上大佐以下、将校11名、下士官8名、水兵27名の計46名が起訴された[13]。 調査の初期段階で、井上司令官は自身が命令を下したことを認めず、副長・井上勝太郎大尉、榎本中尉らが互いに責任を回避・転嫁しようとしたため、命令者や責任の所在が不明確なまま、関係者多数が起訴されることになったとされている[14][15][16]。
判決
1948年3月16日に判決が宣告された[17]。1名が途中で免訴となり、判決は死刑41人、懲役20年1人、同5年1人、無罪2人だった[18][19]。 ロイド兵曹を大勢の刺突により殺害したことについて、全員が虐待致死・死体冒涜をしたと判示され[20]、3人の殺害について41人が絞首刑を宣告される判決となり、宣告時には法廷が騒然となった[21]。
確認・再審査
絞首刑判決を受けた41人のうち、1949年1月28日に第8軍法務部による判決の確認(裁判記録の検討)手続きにより、命令に従って刺突を行ったものの、主体的に殴打や暴行を行わなかったとされた水兵31人が減刑となり[18][22]、更に1950年3月18日に連合軍総司令部による死刑判決の再審査により3人が減刑となった[18][23]。
井上司令と、4人の将校(井上大尉、幕田大尉、榎本大尉、田口少尉)および下士官2人(成迫上等兵曹、藤中1等兵曹)の7人については死刑が確定[24][25]、最終的には絞首刑7人、終身刑8人、有期刑24人、無罪6人となった[26]。