石川義吉
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太平洋戦争
太平洋戦争が開戦すると、石川は藤原の通訳としてマレー作戦の工作活動に従事する。アロール・スターから先の南部で石川はハリマオこと谷豊と接触し、藤原の元へ案内することもあった。石川は谷の印象について「言葉が非常に通じにくい。日本語が下手」「非常に貧乏臭い、マレー人の服装。草履みたいなのだった」と取材者に語っている[5]。石川はクワラ・ラビスの町で100名ばかりのインド投降兵を回収したが、その際第三飛行集団司令部のある少尉に狙われ、インド兵が所持していた時計や私物を略奪されてしまった。この事件で藤原は米村弘少尉を抗議に向かわせ、私物は返還された[6]。バトバハではウビン島上陸訓練を受け、休憩時間にはインド兵らとクシュティーやカバディなど親善試合を経験[7]。1942年2月4日、石川はモーハン・シンの立案でラーム・スループ大尉ら60名と共にビルマへ宣撫班として派遣されることが決まり、同月9日に出発した[8]。この転属は土持則正大尉を筆頭とし、石川、滝村正巳軍曹、通訳の北村義人[9]4人が汽車でビルマへ派遣された[10]。石川は藤原とは4か月程の付き合いとなったが、苦楽を共にした機関長を人生のリーダーと心酔するようになっていた[11]。同年4月末、F機関の増強メンバーである金子中尉、藤井少尉、塚本少尉がビルマ工作に加わった。F機関が光機関に改編されると、石川は萱葺信正、根岸忠素と工作活動に従事[12]。
石原莞爾との面会
石川か着任したラングーンでは関東軍、北支軍など石原莞爾と関りある軍関係者が多く来ていた。この関りから石川は1944年2月に日本へ戻り、静岡にいる石原に面会、話を交える機会を得る。この時石原は石川に次の話題を語った。
- 日本軍はインドに進出するのではなく、今のうちにシンガポールから北、バンコクの線まで引き下がり強力な防衛線を構築し、長期戦に備えるべきであること。
- いずれにせよ日本は敗れる、東京をはじめ大都市は破壊され焼野原となる。皇族の方々は山の中、最悪満州まで非難するかもしれないので心配である。
- 日本が国家として再建できるか非常に疑問である、しかし、荒廃した焦土の中から緑の芽が吹き出してくるように、立ち直れるかもしれない、再生、再起して貰わないと困る。
最後に石原は「君はまた近日中にビルマに帰任するようであるが、日本に生きて帰れることはないだろう。気の毒である、かわいそうである」「ご自身の旧友たちによろしく」と石川に伝え、別れを告げた。石川は同月中に、原宿にいるラース・ビハーリー・ボースのお見舞いや、土持の母と許嫁に連絡を済ませ、ラングーンへ戻った。同年3月、メイミョーで石川は藤原と再会を果たす。石川はインパール作戦の補給について疑ったが、藤原は「心配するな」と取り合わず、更に酒の飲みすぎで石川にたしなめらる側となった。インパール作戦は日本軍、インド国民軍に膨大な餓死者、戦病死者を出して敗退、ビルマ戦線崩壊に繋がった。石川はバンコクへ撤退し、日本の敗北を確信。現地で終戦を迎えた[13]。