中宮悟郎
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大正6年、函館の漁師の子として生まれる。函館師範を出た後、陸軍士官学校第53期を経て軍人となる(但し、53期記念誌に中宮の情報は確認できない)[1]。陸士卒業後、満州へ送られ戦闘を経験、二度貫通銃創を受ける[2]。大行山攻略戦で金鵄勲章の武功をたてる。1938年、陸軍中野学校第二期生として訓練を受ける。1941年時点の階級は中尉。同年9月18日、藤原岩市を長とするF機関に参入。山口源等中尉、土持則正大尉、米村弘少尉、瀬川清治少尉、滝村正巳軍曹と共に杉山元参謀総長からタイ国バンコクに入国し、田村浩大佐のもとでマレー、インド独立連盟工作の命を受ける[3]。中宮は中野悟堂の偽名で水牛の皮を買い付ける日高洋行社員に扮し、シンゴラでスパイ活動をしていた医者”ドクター瀬戸”こと瀬戸久雄と接触。瀬戸にタイの地形調査を指示した[4]。同年10月、中宮は藤原、インド独立運動家のプリタムシンとともにダグラス機でシンゴラへ移動。太平洋戦争開戦の下準備に邁進する。
サルタン救出作戦
太平洋戦争が開戦すると、中宮はマレー人に変装し、椎葉という老人とインド人二人を連れて前線へ出向。椎葉はケダ州で20年近く雑貨商を営んでおり、サルタンの王宮にも度々出入りする60歳の人物であった(山本節は、この人物の本名を椎葉佐平と記している[5]。一方、当時の資料では椎葉兼次郎という雑貨商が存在し、ケダ―日本人会の会長であった。兼次郎は1885年8月25日に熊本県天草郡高濱村で出生していた[6][7]。また、現地では”K.Shiiba”という王族に近い立場の日本人諜報員が1936年から1943年までいた記録がある[8]。更にF機関には増淵佐平がいた)。中宮は前線司令部でグルカ兵捕虜3名を引き連れ、道々捕虜の説得にかかった。インド人、グルカ兵と別れた中宮と椎葉は新たに3人のマレー人と合流、英軍監視下のサルタン、アブドラ王救出のため自転車で英軍支配地域に潜入した。中宮は密林を越え、クリム付近に到着すると、マレー人にサルタンの近況を探らせた。サルタンがボンス山へ避難している情報を把握すると、山頂を登り、寺院にこもる王一行を発見。中宮と椎葉はアブドラ王の次男トゥンク・アブドゥル・ラーマン王子を説得。翌日、3、4時間の会議を経て、中宮はサルタンらから日本軍に協力する了承を得た。一行がクリムの町へ下山すると英軍は撤収しており、王を迎えに市民が集結してきたという。12月25日、ラーマンはペナン放送局からマレー人に反英総決起を呼びかけ、日本軍は味方であると呼び掛けた[9]。ラーマンは戦後マレーシア初代首相となっている。
スマトラ工作
12月31日、ペナンの酒場にいた中宮と岩田遠重の前に、二人の青年が覗き込んできた[10]。中宮に声をかけられた二人はスマトラ独立運動家のアチェ人青年、サイド・アブ・バカルとトンク・ハスビであった。中宮は日本軍への協力を申し出た二人を藤原のもとへ連れて行き、アチェ人に詳しいF機関員、増渕佐平と共にアチェ工作を計画した。多忙であった藤原の代わりに中宮が指揮を担当し、勇士20名を集め、半ヶ月政治教育やゲリラ活動の心得を伝授させた。1942年1月16、17日頃、中宮は岩田、スマトラ青年らを率いてクアラ・センゴル(セランゴール)に潜入し、アブ・バカル率いる一陣を二隻のジャンク船に乗せて出発。スマトラに上陸したアブ・バカルら一行は現地ムスリム政治団体プサに合流。一斉蜂起を実行し、日本軍のスマトラ無血上陸に貢献した。
シンガポールの戦い
ビルマ戦線
台湾独立計画
ボースの遺骨、ラーマン大佐の護送
同月18日、台湾松山飛行場でインド独立運動の最高指導者スバス・チャンドラ・ボースが飛行機墜落事故に遭難し、死亡する事件が起きた。この事故で生還したハビブル・ラーマン大佐と酒井忠雄中佐は9月5日、ボースの遺骨と共に緑十字機の九七式重爆撃機へ搭乗し、日本へ向かうこととなった。この時機内に中宮と林田達雄少尉が同乗しており、中宮とラーマンはF機関時代に面識があったため偶然の再開となった。二人は思い出話で盛り上がったという。ラーマンと遺骨は東京へ向かう予定であったが、飛行機は松本行きで行先を変更できない決まりがあった。安全を考慮した結果、現地へ到着した後は二手に分かれて東京へ向かうこととなり、中宮はラーマンを連れて松本から東京行きの飛行機へ、酒井と林田は遺骨と遺品を守り汽車で移動することが決められた。各自無事に東京へ着くと、遺骨は参謀本部へ引き渡され、ラーマンは在京インド人のもとへ合流。中宮は新宿の自宅へ帰っていった[21]。