破城
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破城が行われた理由
破城の理由は様々であるが、戦国期には日本各地で行なわれた。戦国中期までは1城ごとの城割が多かったが、織田信長や豊臣秀吉の台頭に伴い、領国単位の大規模な城割が行なわれるようになる。さらに江戸時代には、江戸幕府による一国一城令の発布により、おもに西国や東北の外様大名領内で破城・廃城が実施された顕著な例がある。
ただし、破城は常に同じ論理で行われたわけではない。城割は戦国期には降参の作法としての性格を持っていたが、天下統一の進展に伴って、個別の戦闘終結を示す行為から、統一政権や江戸幕府が城郭配置を統制する政策的措置へと大きく変容したとされる[2]。また、福島正則改易や島原の乱後の処理までを視野に入れると、破城は一国一城令へ接続する近世的な城郭統制の文脈でも理解すべき対象である[2]。そのため、同じ「破城」という語でまとめられていても、和平条件として城主側が受け入れる破却、征服後に新たな支配者が命じる破却、反乱や再籠城を防ぐために命じられる破却では、政治的意味も期待される破壊の程度も同一ではない[2]。
また、破城は必ずしも城郭全体を更地化することを意味しない。名護屋城の石垣研究では、城割は城の機能を全面的に失わせるのではなく、一時的な機能停止を示す儀礼性を帯びた措置として理解されており、破城が一様な全面破壊としてのみ把握できないことが示されている[3]。したがって、後掲の各事例は、単に「城を壊した」という一点で並べるのではなく、降参儀礼、支配の再編、再籠城防止のいずれに近いのか、また破却が建物・石垣・堀のどこに、どの程度及んだのかという観点から読むことで、破城が行われた理由の違いをより具体的に理解できる[2][3]。この観点を補うことで、現在の「方法」節の箇条書きと「例」節の個別事例とを、破壊技法の一覧と歴史的意味の差異として結び付けて読めるようになる[2][3]。
戦国・織豊時代
江戸時代
- 一国一城令(江戸幕府 1615年6月)
- 所領内の居城以外の城の破却を行い、1615年(元和元年)7月に発布された武家諸法度における「居城」の確定を目的とするもの。
破城の方法
例
東北地方
中部地方
- 川中島の戦いに関連する城の例
- 旭山城 - 現在の長野県長野市にあった山城。第2次川中島の戦いの和睦条件で破却された。この時の破城は、小屋や柵などの作治部分の撤去や象徴的な石垣の撤去に留められたと推測される[8]。
- 葛山城 - 現在の長野県長野市にあった山城。「鬼の洗濯板」のように切り刻まれた連続空堀が遺構として遺され、曲輪の使用を不可能としている[9][10][11]。
- 尼巌城 - 現在の長野県長野市にあった山城。主郭から南東の尾根の竪堀に付随して登り石垣状の遺構があるが、破却によって崩され竪堀内に残石が投棄された状態になっている[12]。下記の尼巌城の登り石垣状の遺構に類似することから武田氏が改修に関与したとみられる[13]。
- 祢津城 - 現在の長野県東御市にあった祢津氏代々の居城(山城)[14]。山麓部を囲い込むように長大な二重竪堀が設けられ、その内側に登り石垣状の遺構があるが、この二重竪堀・石垣遺構は武田氏が根津氏を従えた後の改修とされる[13]。上記の尼巌城の登り石垣状の遺構に類似し、同様に破却した形跡も認められる[15]。
近畿地方
- 水口岡山城 - 現在の滋賀県甲賀市にあった城。地表面観察で石垣の天端が多く崩れていることが確認され、破城が及んでいた可能性が指摘されていた[16]。平成24年度から行われた発掘調査では、破城によって崩された石垣が検出されている[17]。
- 佐和山城 - 現在の滋賀県彦根市にあった城。石田三成の居城であったが、関ヶ原の戦い後、井伊直政が入城したが、次代直勝の代の彦根城築城に伴い建造物等移築し、残りは徹底的に破却された。
- 筒井城 - 1580年(天正8年)、織田信長によるもの。
- 宇陀松山城 - 現在の奈良県宇陀市にあった城。1615年(慶長20年)、城主福島高晴が改易されたのに伴うもの[18]。
- 大坂城 - 大坂冬の陣(1614年(慶長19年))における徳川方の和平の条件として二ノ丸・三ノ丸・総構(真田丸を含む)破却と堀の埋め立てが盛り込まれ実施された。
- 置塩城 - 羽柴秀吉によるもの。解体された部材は姫路城へ転用
九州地方
海外
- コーフ城 - イギリス内戦で火薬によって破壊された
- ホーエントヴィール城 - ドイツ最大の城跡。1801年8-10月にフランス軍によって破壊。
