祝々亭舶伝
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| 本名 | 岡本 憲二郎 |
|---|---|
| 別名 | 2代目桂春輔 「新世界の春団治」 |
| 生年月日 | 1936年2月27日 |
| 没年月日 | 2008年3月18日(72歳没) |
| 出身地 | |
| 師匠 | 3代目桂春団治 |
| 名跡 | 1. 桂春吉(1953年 - ?) 2. 3代目桂小春(? - 1960年) 3. 3代目桂福團治(1960年 - ?) 4. 大阪矢介(? - 1973年) 5. 2代目桂春輔(1973年 - 1987年) 6. 祝々亭舶伝(1987年 - 2008年) |
| 活動期間 | 1953年 - 1996年 |
| 活動内容 | 古典落語 創作落語 |
| 所属 | 松竹芸能 ダイヤ企画 |
| 備考 | |
| 上方落語協会会員(1953年 - 退会時期不明) | |
祝々亭 舶伝(しゅくしゅくてい はくでん、1936年(昭和11年)2月27日[1] - 2008年(平成20年)3月18日[2])は、大阪府大阪市出身の上方落語の落語家。本名は岡本 憲二郎[1]。春輔時代には新世界にあった新花月によく出演したため、初代春輔が「神戸の春団治」と呼ばれたのに対し「新世界の春団治」と呼ばれた[要出典]。弟子には大介(桂大輔)、弥介(桂弥輔)がいたが[1]、いずれも廃業[要出典]。
大阪市立高校在学中の[要出典]1952年(昭和27年)に2代目桂春団治に入門を志願する[1][3]。2代目春団治没後の1953年3月に、2代目桂福團治(のちの3代目春団治[注釈 1])に入門し、桂春吉を名乗ったが、まもなく3代目桂小春に改名した[1][3]。
1960年(昭和35年)10月、3代目桂福團治を襲名した[1]。
その後、日活映画の大部屋に入り、大阪矢介という芸名でスタントマンもどきの演技をしたり、上京してアレキサンダー一世[注釈 2]と「おしゃべり流し」と称して流しをしたり、病気になったりして一時高座を退く。旅行会社でサラリーマン生活を送ったこともあったが[要出典]、1973年(昭和48年)春[要出典]に2代目桂春輔の高座名で復帰した[1][注釈 3]。
しかし、新花月閉館後、松竹芸能を辞め、ダイヤ企画という会社にマネージメントを任せてからおかしな行動をとるようになり、スナックなどへ無断で飛び込み、強引に自分の独演会のチケットを売り歩いて関係者から苦情が続出したため、上方落語協会から除名された[要出典]。1987年(昭和62年)11月、春団治一門を弟子とともに去り、春輔の名を返上[要出典]、祝々亭舶伝と改名する[1]。ただし、本人は「師匠とは芸風が合わん」というのが袂を分かつ理由とし、春団治も「かわいそうや」と破門処分にはせず「舶伝自ら離れて行った」ということにしていた[要出典]。
1996年(平成8年)ころまで、トラックの中に高座をセッティングした「出前寄席」や、2代目快楽亭ブラックプロデュースの落語会に出演するなど精力的に活動していた[要出典]。
芸風
奇抜なギャグや舞台を飛び跳ねたり、警句を交えた独特の芸風で根強いファンを持っていた。『うなぎ屋』『へっつい盗人』『初天神』『牛ほめ』『動物園』『相撲場風景』など古典落語のほか、『人間タクシー』『新婚離婚日記』『京都大原3450円』『修学旅行』など新作落語も得意とする。一時はネタのなかに頻繁に「カブト虫」が登場した。また、桂文太や桂雀三郎が演じる『初天神』は舶伝直伝である[要出典]。
桂春若によると、桂春輔時代にダイエー京橋店が会場だった時代の島之内寄席(1975年 - 1984年)で『動物園』を演じた際、作中で主人公が扮する「虎」を「象」と間違えてしまい、「もう云うてしもたから、今日は象でいくわ」と苦労しながらそのままサゲまで演じ、かえって大受けしたことがあった(次の出番だった2代目桂枝雀は「あのあとは出来ません」と演じずに高座を降りた)[4]。
また、苦労時代が長く貧乏で、吉川潮の著作『突飛な芸人伝』(河出文庫)の中でも貧乏・破門のエピソードが紹介されている。その生活ぶりがワイドショーで取り上げられた際は大変な反響があり、「がんばってください」という激励の言葉が多い中で、自殺を考えるほど貧乏な視聴者から「自分より貧乏な人ががんばっている姿に勇気づけられた」との言葉もあったという[5]。