神保八十吉
日本の実業家 (1862-1949)
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人物
文久2年(1862年)、加賀国(石川県)に生まれる[1]。加賀絹糸、小松銀行の取締役を務め[2]、明治40年(1907年)、小松銀行が能美銀行と合併し、小松商業銀行が設立されるに際しては、創立発起人の1人となり、同行の取締役も務めた[3]。小松銀行の監査役を務めた宇都宮源平が、大正9年(1920年)、宇都宮書店(現・うつのみや)を株式会社化するに当たっては、神保も取締役として参画した[4]。
また、小松にて神保運送を経営し、金沢運輸事務所管内公認運送取扱人組合の評議員や、鉄道公認運送取扱人組合中央会の代議員を務めた[5]。大正15年(1926年)、鉄道省より運送事業者の合同を慫慂する声明が発表され[6]、昭和2年(1927年)に小松合同運送が設立されると、神保も取締役に就任した[7]。
『北陸人物名鑑』によると、はじめ官吏であったが、実業界に転じ、まず運送業で成功、次いで土地家屋の売買でも巨利を収め、商業の発達に伴う石炭やコークスの需要を見込むと、その一手売買を行う石炭商として収益を挙げ、人口増加に伴う住宅難を見込むと、金沢市内各地に貸家を建築し、金沢一流の大家主となったとされる[8]。
家主としては、金沢市内の家主らで構成する家主同盟会に属していたが、大正8年(1919年)6月3日、家主同盟会が家賃値上げを決議すると、永井柳太郎の支持者らによる反対運動が起こり、神保らが家主同盟会を脱退、同盟会の批判に回った[9]。その後間もない6月18日、同盟会は値上げを撤回し、同盟会自体が解散するに至っている[9]。
貴族院多額納税者議員の互選資格者で、憲政会に属した[10]。
第二次世界大戦中の石炭の販売統制下にあっては、石川県石炭統制、東海石炭販売両社の取締役、相談役を務めた[11]。昭和20年(1945年)には、産業功労者として石川県による表彰を受けた[12]。
昭和24年(1949年)、88歳にて死去。晩年は石川県石炭業界の最長老とされた[11]。