神籠石
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本来、「神籠石」とは岩石信仰の一形態(磐座)の名称であった。日本列島全域にこの名称は確認できるが(→#各地の神籠石)、高良大社の事例において江戸時代中期ごろから列石の名称として用語が混同されるようになる(→#高良山の神籠石について)。この列石が考古学界に「神籠石」として紹介されたために考古学史上で誤解されたまま用語が定着した。研究の進展によって用語の混乱は解消しつつある(→#考古学史上の混乱)。
こうごう石・こーご石・かむご石・かご石・かわご石などの読み、そして香合石・皮籠石・川子石・交合石・皇后石などの表記が存在するが、この「カ行」と「ゴ」の組み合わせの語の意味は不明であり、民俗学上の課題とされる[1]。
高良山の神籠石について

福岡県久留米市の高良大社境内には、「神籠石」と呼ばれる列石と「馬蹄石」と呼ばれる岩石が存在する。しかし鎌倉時代後期以前に成立の『高良玉垂宮縁起』では列石を「八葉の石畳」、祭神が住まいとしたものを「神籠石」と呼称し[2]、室町時代末期に成立の『高良記』(『高良玉垂宮神秘書』)でも同様に列石を「八葉の石タゝミ」、列石の起点・終点となる岩石を「神籠石」と呼んでいる[3]。そして『高良記』で「神籠石」に馬の蹄跡が残ると記していることから、これが馬蹄石と同一のものであることが知られる[4][注釈 1]。
貞享2年(1685年)の高良山城の発掘記録である『高良山八葉石記』でも列石を正確に「八葉石」と呼んでいるが[5]、安永6年(1777年)の地誌『筑後志』では列石を「神
幕末には、矢野一貞が文久2年(1862年)の地誌『筑後国郡志』で列石を「神籠石とも、八葉石ともいふ」と、やはり名称を混同している[7][注釈 3]。
考古学史上の混乱
1898年に小林庄次郎が「筑後国高良山中の「神籠石」なるものに就て」[9]という報告を『東京人類学会雑誌』に寄稿したのが、高良山城が学界に紹介された最初である[10]。小林は神籠石が神域を区画するものと推定しており、前述の用語の混同(→#高良山の神籠石について)を知りながら自説の強調のためにあえて「神籠石」の呼称を採用した可能性も指摘されている[2]。
いわゆる神籠石論争で「神域説」をとった喜田貞吉は、自説に有利な名称であったために高良山城やその同類遺跡の通称として「神籠石」の使用を繰り返した[11]。これに対し、柳田國男は喜田への書簡で「神籠石」の呼称が列石に用いられている例を「高良山神籠石」(高良山城)の一例しか見いだせないことから[注釈 4]、総称として「神籠石」の用語を用いることは不適切であると指摘した[12]。柳田の指摘を受けた喜田はこれらの遺跡の呼称を「磯城」もしくは「磐境」に改めると述べたものの、結局「神籠石」を用い続けた[13]。
神籠石論争以後、高良山城やその同類遺跡の通称として「神籠石」は定着してしまったが、斎藤忠が北部九州を中心とする切石列石を持つ山城を「神籠石式山城」と呼ぶことを提唱し、さらに1970年代後半以降に瀬戸内海沿岸で古代山城の発見が相次ぐとそれらを含めた総称として「神籠石系山城」が用いられるようになった[14][注釈 5]。また小野忠熈の提唱以降、各遺跡の呼称が「○○神籠石」から「○○城」に改められるようになってきている[15]。
研究上の用語が修正されつつある一方で、史跡名称・指定基準に問題が残っている[15]。1972年以前に国史跡に指定された遺跡は史跡名称が「○○神籠石」[注釈 6]で指定基準は「一.貝塚、集落跡、古墳その他のこの類の遺跡」となっている[15]。1986年の鬼城山以降は研究成果をもとに「○○城」[注釈 7]として指定され、指定基準も「二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡」に切り替わっている[15]。
