神籠石系山城

九州から瀬戸内地方にある列石遺跡 From Wikipedia, the free encyclopedia

神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ)は、九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には『日本書紀』や『続日本紀』に記載がなく遺構でのみ存在が確認される古代山城を指す。

名称

神籠石は、当て字で皮籠石・交合石・皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。本来高良大社参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石のことを指す名称であったが、近くにある列石(高良山では「八葉石塁」「八葉の石畳」と呼ばれていた)と混同して学会に報告されたため、列石遺構の方にこの名が付けられた[1]。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになったが、命名の経緯からすれば明らかな誤りである。

文化財の指定名称としては、従来「唐原神籠石」と呼ばれていたものが2005年に「唐原山城跡」という名称で国の史跡に指定された例がある。既に「神籠石」という名称で指定されている史跡も今後改名される可能性がある。

発見と論争

神籠石系山城が学会に発表されたのは、1898年明治31年)に小林庄次郎が筑後・高良山城を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である[2]1900年(明治33年)に九州所在の神籠石と呼ばれた遺構を踏査した八木奘三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張した[3]のに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論した[4]ことで、神籠石と呼ばれた遺構の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。

1963年昭和38年)の佐賀県武雄市おつぼ山城の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ掘立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった[5]

特徴

  • 幾つかの谷を取り込み、山腹を取り囲む場所に立地する[6]
  • 標高200 ~ 400mの山頂から中腹にかけて数kmにわたって一辺が70cm位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列(列石)し[1]、その上部に版築による土塁を有する[6]。列石の配置は、山頂から平野部に斜めに構築する九州型と、山頂を鉢巻状に囲む瀬戸内型がある[7]
  • 谷を通過する場所に、数段の石積みを有する城門や水門を設けている[6]
  • 列石遺構の内部に、顕著な建物遺構が見られない[6]
  • 『日本書紀』持統天皇三年(689年)三月条にある「九月庚辰朔己丑 遣直廣参石上朝臣麿 直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫 給送位記 且監新城」の「新城」との関連を指摘する意見もある[8]

性格

古代山城比定地にされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。

それぞれの神籠石系山城の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」など様々である。

現在まで、神籠石系山城が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から総轄し暫定的に神籠石系山城と総称している可能性もあり、おつぼ山の調査結果は「神籠石系山城の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことが確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石系山城の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石系山城の性格を規定できるものではないのも当然である。

また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、ヤマト政権成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。

八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石系山城の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。鏡山猛は、列石前面の掘立柱穴の間隔が約3mで並んでおり、代の大(一尺=29.4cm)の十尺(2.94m)とほぼ等しいことから唐尺が使われた7世紀中頃以降の築造と主張したが、南朝の小尺(一尺=24.5cm)でも十二尺(2.94m)とすると殆ど変らない値なので7世紀中頃以降の築造とする根拠はない。北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。

一覧

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(凡例)
1)名称・所在地は、底本を向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』掲載の一覧表[9]とし、名称の表記は「○○城」で統一した。
2)「史跡指定」欄は、城跡の史跡指定名称・指定種別・指定年を記載。
3)「文化庁」欄は、文化庁の国指定文化財等データベースへのリンクを記載。
さらに見る 地方, 国 ...
古代山城の一覧
地方 名称 所在地 座標 史跡指定 文化庁
名称 種別
瀬戸内 播磨国 播磨城山城 兵庫県たつの市 北緯34度53分48.45秒 東経134度31分35.11秒 なし
備前国 大廻小廻山城 岡山県岡山市 北緯34度43分24.99秒 東経134度1分19.32秒 大廻小廻山城跡 国の史跡 2005年
備中国 鬼ノ城 岡山県総社市 北緯34度43分35.56秒 東経133度45分46.49秒 鬼城山 国の史跡 1986年
安芸国 長者山城 広島県東広島市広島市 北緯34度27分22.62秒 東経132度36分10.46秒 なし
周防国 石城山城 山口県光市熊毛郡田布施町 北緯33度59分14.52秒 東経132度2分26.57秒 石城山神籠石 国の史跡 1935年
讃岐国 讃岐城山城 香川県坂出市丸亀市 北緯34度17分22.99秒 東経133度53分23.19秒 城山 国の史跡 1951年
伊予国 永納山城 愛媛県西条市今治市 北緯33度58分40.30秒 東経133度3分21.25秒 永納山城跡 国の史跡 2005年
九州 筑前国 鹿毛馬城 福岡県飯塚市 北緯33度40分35.49秒 東経130度44分8.54秒 鹿毛馬神籠石 国の史跡 1945年
雷山城 福岡県糸島市 北緯33度30分0.16秒 東経130度13分6.49秒 雷山神籠石 国の史跡 1932年
杷木城 福岡県朝倉市 北緯33度21分22.82秒 東経130度49分41.43秒 杷木神籠石 国の史跡 1972年
阿志岐山城 福岡県筑紫野市 北緯33度29分36.97秒 東経130度33分47.28秒 阿志岐山城跡 国の史跡 2011年
筑後国 高良山城 福岡県久留米市 北緯33度17分52.41秒 東経130度34分28.61秒 高良山神籠石 国の史跡 1953年
女山城 福岡県みやま市 北緯33度9分47.90秒 東経130度31分8.32秒 女山神籠石 国の史跡 1953年
豊前国 御所ヶ谷城 福岡県行橋市京都郡みやこ町 北緯33度40分29.61秒 東経130度55分48.49秒 御所ヶ谷神籠石 国の史跡 1953年
唐原山城 福岡県築上郡上毛町 北緯33度33分53.51秒 東経131度9分38.16秒 唐原山城跡 国の史跡 2005年
肥前国 帯隈山城 佐賀県佐賀市神埼市 北緯33度20分8.68秒 東経130度20分4.05秒 帯隈山神籠石 国の史跡 1951年
おつぼ山城 佐賀県武雄市 北緯33度10分38.97秒 東経130度3分27.21秒 おつぼ山神籠石 国の史跡 1966年
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脚注

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