福島秀子

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死没 (1997-07-02) 1997年7月2日(70歳没)
東京都小金井市
国籍 日本の旗 日本
代表作 『ささげもの』(1957年)
福島 秀子
(ふくしま ひでこ)
生誕 1927年2月7日
東京府乃木坂
死没 (1997-07-02) 1997年7月2日(70歳没)
東京都小金井市
国籍 日本の旗 日本
代表作 『ささげもの』(1957年)
運動・動向 実験工房
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福島 秀子(ふくしま ひでこ、1927年2月7日 - 1997年7月2日[1])は、日本の芸術家。1940年代から絵画を中心に前衛的な作品を発表し、円と線の型押しをする独自の作風を確立し、1950年代にジャンル横断的な活動をして国内外で出品された。2010年代以降に抽象画家として再評価が進んでいる。

東京府の乃木坂に生まれる。母親は茶道の師範資格を持ち、自身も日舞や茶道などの伝統芸能を身につけて育った[注釈 1][2]。戦中は文化学院に通い、文化学院が軍部によって強制閉鎖を受けたため1943年に卒業し、福井県などで疎開生活を送る。戦後は東京に戻り、1947年のモダンアート夏期講習会への参加をきっかけに美術家の活動を始めた[注釈 2][4]。前衛的な芸術グループの実験工房の設立に立ち会い、弟で音楽家の福島和夫も実験工房に参加した。実験工房では瀧口修造阿部展也など前衛美術界の人物と交流し、1957年にはミシェル・タピエによってアンフォルメルの画家として紹介され、日本の現代絵画の作家として国内外の絵画展に出品した[2]

1961年のパリ青年ビエンナーレ展でヨーロッパ各地を訪問したのちに活動が減った[注釈 3][5]。1970年代には作風を変え、青の絵の具を使った〈青〉シリーズや、パラフィン・ワックスを使ったコラージュを制作した。1980年代以降は創作の中断が増え、1991年にくも膜下出血によって療養生活を送り、1997年に肺ガンで没した[1]

作品

福島は1940年代から抽象的な絵画を描き始めた。『くるみ割り人形』(1948年)や『母子』(1948年)では画面を太い線で分割して色を塗り分けている[6]。1940年代末からは人の姿を描くための様式を目指し、『偏執狂II』(1950年)などの作品では人の顔を太い線で構成して漫画的な表情を作っている[7]。1950年からはキュビズム的な手法で『MP』(1950年)や『魚』(1950年)などを描いた[6]。この時期には実体的な造形や有機的な存在への関心が表れており、一般的なキュビズムのように平面の切子面ではなく湾曲した面が組み合わされている[8]。初期の作品では、幾何学的な抽象画の村井正誠や、シュルレアリスムを研究していた阿部展也との関連が見受けられる。福島は、村井から造形の基礎や洋画の技法、阿部からは日本の前衛絵画についての知識を得た可能性がある[9]

実験工房はバレエ公演、演奏会、グループ展などの活動を行い、福島も参加した。ピカソ祭のバレエ公演「生きる悦び」(1951年)や、アルノルト・シェーンベルクの楽曲にもとづいた「月に憑かれたピエロ」(1955年)では衣装を担当し、松尾明美川路明との共同企画「乞食王子」(1955年)では舞台美術を担当した[10]。その他に実験工房での活動で福島に影響を与えたものとして、1953年の実験工房第5回発表会で発表されたオートスライド作品『水泡は創られる』がある。福島はスライドの構成と詩の朗読を担当し、音楽は弟の和夫が作曲した。スライドは抽象的なオブジェや泡を写し、抒情的な詩が付けられていた。イメージは生命としての泡の発生や天体に結び付けられており、泡のような密集した円が現れる部分は、のちのスタンピング手法に類似している[11]。福島は実験工房とは別個に独自の絵画制作も続けた(後述[12]

福島が共感を示した対象は、同世代の画家よりも、電子音楽ミュージック・コンクレートの音楽家が語る「音の無限の空間に対する希望」だった。実験工房のメンバーである湯浅譲二に、そうした作曲家のレコードを貸すこともあった。特にジョン・ケージに親近感をもち、ケージのチャンス・オペレーションという手法は、福島のスタンピングとも共通点がある[13]

スタンピング

1950年代半ばから1960年代初頭には、「捺す」手法による独自の抽象表現を確立した[6]。1955年頃から、さまざまな物体にインクや墨をつけて画面に押し付け、その組み合わせで画面を構成するという方法を始めた。和紙やケント紙などを水に濡らして部分的にグワッシュで下地を塗り、その上に罐、スポンジ、骨などに絵の具を捺すという手順で作られる[14]。福島の制作では、筆で描く時にはカンヴァスはイーゼルの上にあるか壁に立てかけられており、捺す時には紙やカンヴァスをテーブルに置いていた。捺す場合は、筆とは異なり力を統御するのが困難であるが、痕跡によって物理的存在は示される。また、捺す時に使われる形は決定されており、力や絵具を変えても変化はごくわずかとなる。その代わりに決まった円や線によって可変性や動きが表現されて複数のイメージを作り出す。このため捺す行為は、筆で描く行為とは異なる身体経験として意識されていた[15]

スタンピングの最初の作品は、資料からの推測で『黒い説話』(1955年)とされる[14]。『黒い説話』の制作ノートには、「非感情的な形や線をもったものに、黒い墨を塗り、濡れた紙の上に定着させ、その濡れた画面ににじみ出る形態、線は私の意志のもとに創られていきます」と書かれている。福島は感情を反映させずに形態を生み出す方法としてスタンピングを選び、身体的な自分の内部の動きを取り出して画面に残す方法として考えていた[16]。1957年の『美術批評』で福島は次のように述べた[17]

現代の「世界」に生きるものは、単に人間的であるものよりも、むしろ無機質化されたものとの、直接的な触れ合いによって、新鮮なより強い感動を受け取るのではないでしょうか。[18]

スタンピングの代表作である『ささげもの』(1957年)では、縦長の長方形が繰り返し描かれ、四角形の中は無数の「円」で満たされている[19]。捺す手法を着想した詳細は不明だが、福島が好んだパウル・クレー作品の研究と思われるグラデーション色面分割のスケッチや修作が残されている[20]。1958年頃から1メートルを超えるカンヴァスによる制作を始め、筆跡の質感がより目立つようになってゆく。大ぶりの線、絵具のたらし込みやしぶきなどが用いられており、アンフォルメルの作家として紹介されるようになった[21]。この時期の典型的な作品である『ホワイトノイズ』(1959年)は、灰色がかった銀色を背景に黒いインクやエナメルの円が連なり、墨を含んだ筆による弧が描かれている。空間を開けようとする円と空間を埋めようとする絵具の筆致が緊張関係を生み出している[22]ホワイトノイズとは可聴域の全ての高さの周波数が混じった雑音を表す語でもあり、作品名は聴覚的な主題も表している[注釈 4]

評価

1955年には、ブルックリン美術館で開催された第18回国際水彩画ビエンナーレで草間彌生赤穴桂子らと共に作品が展示された。[24]。1956年に来日したフランスの批評家ミシェル・タピエは、福島の作品について「今日の最先端の画境と明日への提言とが何であるかを正しく知るためには、必ずや他の画家たちとともに考察対象として挙げられるべき作家」と評価した。そして抽象絵画に国際的な潮流との共通点があると論じた。タピエによる紹介によって、新しい抽象絵画やアンフォルメルの画家として福島が知られるようになった[25]。それ以降、福島の作品はタピエが日本で企画した世界現代芸術展(1957年)をはじめ、新しい絵画世界展」(1958年)、イタリアのプレミオ・リソーネ国際展、スイスの現代日本絵画展などに選出された[26]

福島について雑誌や新聞において議論された時期があり、女性作家である点、作品の傾向、スタンピング作品が認知されていた。活動の休止にともない、1967年以降から同時代の批評は減少していった[27]。福島に関する研究は、近年までは実験工房で制作した作品や舞台デザインに関するものが中心であり、個人的に制作した絵画についての批評は少数だった[28]

画業について再評価が進んでおり、2012年に東京都現代美術館で特集展示「福島秀子/クロニクル1964-」が行われた。2013年には神奈川県立近代美術館鎌倉館の展覧会「実験工房展 戦後芸術を切り拓く2」で絵画が取り上げられた[29]。絵画についての分析は中嶋泉の著書『アンチ・アクション― 日本戦後絵画と女性画家』(2019年)で行われ、草間彌生や田中敦子らと共に方法論が紹介された[30]。2025年には東京国立近代美術館の企画展「アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦」で展示された[31]

脚注

参考文献

関連文献

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