福田三河守 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 ‐ 安土桃山時代生誕 不詳死没 文禄2年7月3日(1593年7月30日)[1]改名 (通称)三河守 凡例福田貞正[1]時代 戦国時代 ‐ 安土桃山時代生誕 不詳死没 文禄2年7月3日(1593年7月30日)[1]改名 (通称)三河守戒名 霊雲院殿大忠雄勤大居士[1]主君 織田信長氏族 福田氏特記事項 卅六飛将[2]の一人。朱旄 (馬印) は「朱丸横ニヌイテ」[2]。テンプレートを表示 福田 三河守(ふくだ みかわのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。 織田信長の家臣で馬廻とされる。 天正3年5月16日(1575年)、長篠の戦いの際に三河国牛窪城の警固役として、丸毛光兼と共にその任に就く[3]。また、同年8月16日に織田信長が越前国の府中龍門寺に出陣 (越前一向一揆) の際に、路地警固として越前国今城を任される。[3][4]。 天正5年3月2日(1577年)、織田信長の雑賀攻めの際に、将の一人として根来口より侵攻する[5]。 天正10年5月29日(1582年)、織田信長の中国遠征の際に、安土城の二の丸警固役の一人として、その任に就く[6]。 その後、史書から姿を消した。 末裔 直系子孫とされる福田家の私記の記述において以下の文面がある[1] 廿六代 文禄二癸巳七月三日 霊雲院殿大忠雄勤大居士 三州牛窪城主 福田三河守貞正 織田信長公幕下、高名士八十三騎内一騎当千之士也 以下略 — 福田家、私記 また、三河守を祀った祠があり、そこで矢に中って戦死したとも言われている。[1] 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 神郷町史 1 2 『大武鑑内総見公武鑑』(橋本博編集)※総見公武鑑は浅井玄卜(生没年不詳)が1634年に記述したものを大武鑑に載せたものである。 1 2 『信長公記』 巻八 ↑ ※当時今城と呼ばれた城があったのか、今庄城の脱字であるかは不明。 ↑ 『信長公記』 巻十 ↑ 『信長公記』 巻十五 Related Articles~TimelinesTop QsFact Checks