禰寝久清

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禰寝 久清(ねじめ ひさきよ)は、南北朝時代武将禰寝氏9代当主。禰寝清有の子。清平竹崎清息野久尾直清野間清員堀内清篤の父。

生誕 不詳
別名 孫次郎、右馬助(通称)
概要 凡例禰寝 久清, 時代 ...
 
禰寝 久清
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 弘和3年/永徳3年6月2日1383年7月2日
別名 孫次郎、右馬助(通称)
氏族 禰寝氏
父母 父:禰寝清有
清平竹崎清息野久尾直清
野間清員堀内清篤
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正平8年/文和2年(1353年)に父が隠居、翌正平9年/文和3年(1354年)に家督を継承した[1]大隅経営に力を注ぐ島津氏久からは厚遇され、正平16年/康安元年(1361年12月5日に大禰寝院のうち永吉と郡本の地頭兵粮料所として預けられ、翌正平17年/康安2年(1362年7月21日に深川院の北半分を兵粮料所として宛がわれた一方、軍勢催促も出され、正平18年/貞治2年(1363年6月10日に末次覚栄の討伐を掲げた氏久から禰寝一族ごと招かれ、正平22年/貞治6年(1367年)には大隅西俣村の地頭を兵粮料所として預けられるなど氏久との関係は深かった[2][3]

建徳2年/応安4年(1371年)に子の清平へ家督を譲り隠居[1]。同年に南朝征西大将軍懐良親王から、翌建徳3年/応安5年(1372年)に北朝室町幕府九州探題今川了俊からそれぞれ書状を送られ味方に誘われたが、去就を明らかにしなかった。天授元年/永和元年(1375年)の水島の変で氏久が了俊と決別して南朝へ帰順した際、了俊からは氏久に加担してはならないと命じられ、懐良親王からは南朝帰順を称賛されたが、なおも態度をはっきりさせなかった[4][5]

翌天授2年/永和2年(1376年)に了俊の子今川満範肥後国人相良前頼の支援で肥後人吉に到着すると、満範・前頼や野辺盛久から勧誘され召集に応じる旨の請文を出したとされるが、了俊と氏久の間で一向に態度を明らかにしないままだった。だが天授3年/永和3年(1377年)、天授4年/永和4年(1378年)に了俊から勧誘の書状を送られ、満範からも所領安堵で誘われるにおよんで今川方に加勢、天授5年/康暦元年(1379年)11月に氏久の所領西俣(現在の鹿児島県鹿屋市)と大姶良城を攻撃した。了俊・満範父子からは天授6年/康暦2年(1380年)5月から7月にかけて優遇され、大隅鹿屋院のうち恒見村を与えられ、姶良荘を兵粮料所として預けられた上で本領安堵された。以後も今川方として戦い続け、10月に鷹栖城を抜き、弘和元年/永徳元年(1381年)6月に氏久の一族佐多氏義の佐多城を落としたことで、9月に了俊から禰寝北俣4ヶ村を与えられた[6][7]

了俊・満範父子からの信頼は厚く、満範と名和慈冬(または各和慈冬)から氏久方の日向都之城志布志城付近の戦いについてのやりとりを書状で送られているほか、弘和2年/永徳2年(1382年1月の了俊からの書状で氏久と甥の島津伊久が帰順したことの喜びを伝えられたが、氏久への不信感から彼の監視を命じられた。また同年9月4日の了俊書状で「玄久(氏久)も一揆中も、ひとまず個人的な遺恨や所領相論は差し置いて、双方陣を引き、すぐに八代に出陣して宮方を退治するよう、堅く命じた」と氏久と南九州国人一揆への対応を伝えられたり、9月23日の了俊からの書状で改めて本領安堵を告げられたりするなど、了俊から信頼されたことが『禰寝文書』に記されている[8][9]

弘和3年/永徳3年(1383年)6月2日に死去[1]。翌年の元中元年/至徳元年(1384年)に清平は了俊から離反した[2]。ただし離反は元中2年/至徳2年(1385年)2月ともされ、1月の相良前頼の南朝への寝返りに続いての離反で了俊を苦境に立たせ、征西大将軍良成親王から称賛の令旨を送られたことが確認されているが、この禰寝氏が清平かどうかは分かっていない[10][11]

脚注

参考文献

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