元中
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出典
出典・勘申者ともに不詳。『易経』彖伝上に「黄裳元吉、文在中也」とある。
元中年間の出来事
※ 南朝関係に限る。
- 元年(1384年)
- 2年(1385年)
- 3年(1386年)
- 4年(1387年)
- 5年(1388年)
- 6年(1389年)
- 1月 - 花山院長親が自らの家集『耕雲千首』を書写し、序でにその奥書を加える。
- 3月1日 - 北畠顕泰が北伊勢を攻撃するも、一色詮範・仁木義長が防戦する。
- 3月18日 - 後亀山天皇が阿蘇惟政に綸旨を下し、後征西将軍宮への忠勤を促す。
- 7年(1390年)
- 8年(1391年)
- 9年(1392年)
- 1月18日? - 楠木正勝・正元が河内千早城で畠山基国と交戦するも敗走する。
- 10月13日 - 将軍足利義満が阿野実為へ請文を送り、南北朝講和の条件を提示する。
- 10月28日 - 後亀山天皇と廷臣・武士らが三種の神器を奉じて吉野行宮を出立する。
- 閏10月2日 - 後亀山天皇が京都に還御し、嵯峨大覚寺に入る。
- 閏10月5日 - 後亀山天皇が譲位し、北朝が三種の神器を接収する(南北朝合一)。
- 10年(1393年)以降
- 九州征西府や東国新田氏を中心とする南朝勢力の間では、合一後もなお「元中」年号が使用され続けた。具体例としては、『阿蘇文書』に元中10年(1393年)、『五条家文書』に同11年(1394年)・同12年(1395年)、『市河文書』に同14年(1397年)[2]、『日枝神社文書』に同18年(1401年)の各年紀を持つ文書がある。
死去
- 2年(1385年)
- 3年(1386年)
- 4年(1387年)
- 6年(1389年)
- 7年(1390年)
- 8年(1391年)