秋庭頼次
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寺院の再興と寄進
秋庭頼重(八郎)の子として誕生。父・頼重と同様に当時の活動を伝える文献資料は乏しいが、家督を継いで備中松山城主となった[1]。
頼次の事績として、地域の有力寺院への関与が記録に残されている。 浄池山宝妙寺(現・岡山県高梁市有漢町)の現住増嵩による「謹言上書」には、「康応元年重明後孫再興於二王畢」との記述があり、康応元年(1389年)に祖父・秋庭重明の跡を継いだ孫の頼次が、同寺の仁王門を再興したことが確認されている[1]。また、同時期の年表資料(『高梁市史』引用資料)には、康応元年(己巳)に「秋庭平之允頼次 有漢宝妙寺 山門造営寄進」との記載があり、一族の菩提寺としての外護に努めた様子が窺える[2]。
晩年と入寂
正長元年(1428年)に没したとされる。 墓所は岡山県高梁市有漢町の医王堂境内にあり、祖父・重明や父・頼重の墓と並んで五輪塔が建立されている。その五輪塔の北輪部分には以下の二通りの刻銘がある[1]。
- 「正長元年戊申 常遊禅定門 四月二十二日」
- 「正長元年戊申 成貞禅定門 五月十一日敬白」
『岡山県金石史』の著者は、このいずれかが頼次の法名であると推測しているが、確定には至っていない[1]。