秋月種春
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高鍋藩初代藩主種長には男子がなく、一門の長野種貞を婿養子にしていた。しかし、種貞は病弱であったために廃嫡され[2]、その息子で種長の外孫である種春が代わって養子となり、跡取りの男児への命名の慣例に従い黒帽子と名付けられた[3]。慶長18年(1613年)には将軍秀忠への御目見を済まし、慶長19年(1614年)6月に種長の死去により4歳で家督を継いだ[1]。
幼少で跡を継いだため、大坂の陣へは家老を名代とし、寛永元年(1624年)、15歳の時初めて江戸を離れ高鍋へ下向した[4]。翌年、信濃長沼城主佐久間勝之の娘と結婚[5]。寛永3年(1626年)従五位下長門守に叙任[2][6]。そのころ、藩財政は逼迫し、藩士の家禄削減や借り上げを行ったが、藩主不在の間に藩政を牛耳った白井種盛・種重の家老親子への優遇に不満を持つ一派が反発し、それを弾圧する白井親子の派閥との間に「上方下方騒動」と呼ばれる争いが発生し、白井派の専横が続く中、内紛は種春在位中には収まらず、その後40年以上におよんだ[7][8]。
万治2年(1659年)10月、麻布久保町の江戸藩邸において50歳で死去し[9]、下谷広徳寺(現在は練馬区桜台に移転)に葬られた[6]。跡は長男の種信が継いだ[4]。