秋月種春

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時代 江戸時代前期
改名 黒帽子(幼名)、種孝、種隣
 
秋月 種春
時代 江戸時代前期
生誕 慶長15年5月11日1610年7月1日
死没 万治2年10月15日1659年11月29日
改名 黒帽子(幼名)、種孝、種隣
別名 三郎(通称
戒名 大洋院殿古巌宗帆大居士
墓所 広徳寺
官位 従五位下長門守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
日向高鍋藩
氏族 秋月氏
父母 父:秋月種貞、母:オチョウ(秋月種長の娘)
養父:秋月種長
佐久間勝之の娘
アグリ(六条有縄室)、種信、セン(早世)、半之丞、カン(早世)、湛栄(僧侶)
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秋月 種春(あきづき たねはる)は、日向国高鍋藩2代藩主。初代藩主・秋月種長の甥[注釈 1]秋月種貞と種長の娘・オチョウの長男。

高鍋藩初代藩主種長には男子がなく、一門の長野種貞を婿養子にしていた。しかし、種貞は病弱であったために廃嫡され[2]、その息子で種長の外孫である種春が代わって養子となり、跡取りの男児への命名の慣例に従い黒帽子と名付けられた[3]慶長18年(1613年)には将軍秀忠への御目見を済まし、慶長19年(1614年)6月に種長の死去により4歳で家督を継いだ[1]

幼少で跡を継いだため、大坂の陣へは家老を名代とし、寛永元年(1624年)、15歳の時初めて江戸を離れ高鍋へ下向した[4]。翌年、信濃長沼城主佐久間勝之の娘と結婚[5]。寛永3年(1626年)従五位下長門守に叙任[2][6]。そのころ、藩財政は逼迫し、藩士の家禄削減や借り上げを行ったが、藩主不在の間に藩政を牛耳った白井種盛種重家老親子への優遇に不満を持つ一派が反発し、それを弾圧する白井親子の派閥との間に「上方下方騒動」と呼ばれる争いが発生し、白井派の専横が続く中、内紛は種春在位中には収まらず、その後40年以上におよんだ[7][8]

万治2年(1659年)10月、麻布久保町の江戸藩邸において50歳で死去し[9]下谷広徳寺(現在は練馬区桜台に移転)に葬られた[6]。跡は長男の種信が継いだ[4]

系譜

脚注

参考文献

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