稲葉道通

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生誕 元亀元年(1570年
別名 勘右衛門(通称)[2]、重一(初名)[2]通茂[要出典]
 
稲葉 道通
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀元年(1570年
死没 慶長12年12月12日[1]1608年1月29日
別名 勘右衛門(通称)[2]、重一(初名)[2]通茂[要出典]
戒名 富春院普岩寿趙[1]
墓所

京都府京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺雑華院[1]

三重県玉城町の三縁寺
官位 従五位下、左近蔵人[2]
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
伊勢田丸藩
氏族 稲葉氏
父母 父:稲葉重通、母:吉田浄忠の娘[2]
兄弟 牧村利貞通重、宗甫、女子(稲葉正成室)、道通、養女(稲葉正成継室、春日局)、女子(石河備後守室)、女子(種田正状室)
正室:日根野盛就(重之)の娘[1]
女子(船越永景継室)、女子、某、紀通、女子(阿部忠秋正室)、某
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稲葉 道通(いなば みちとお[2][3]/つねみち[3])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名稲葉重通の子。豊臣政権下で実兄・牧村利貞の遺領を継ぎ、伊勢岩手(岩出)城主となる。関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後に加増を受けて伊勢田丸藩初代藩主。

出自

稲葉重通稲葉良通の庶長子)の四男。長兄(異母兄)は牧村利貞牧村政倫の養子)、次兄は稲葉通重、三兄は僧侶になった[2]。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)では重通の婿養子となった稲葉正成が道通の四男の位置に掲出されており、系図上で道通は五男として扱われている[2]

兄の遺領を継ぐ

牧村利貞は豊臣秀吉に仕え、伊勢国岩手城を与えられて2万石を領有していたが、文禄2年(1593年)7月に朝鮮において陣没した[2][4]

利貞には息子がいたが(後述)、秀吉の命によって実弟の道通が跡を継いだ[2]。文禄3年(1594年)には伏見城の工事にあたり5700石を加増された[5]

慶長3年(1598年)、木材の海上運輸税をめぐって[6]九鬼嘉隆(志摩鳥羽城主)との間に紛争が生じたが、徳川家康の裁定によって稲葉道通が勝利した[7]。これによって九鬼嘉隆との間に遺恨が生じたという[6][7]

関ヶ原の戦いにおいては東軍に与し、伊勢国において西軍に与した九鬼嘉隆らと戦った[2]。『藩翰譜』によれば、会津攻めに従軍していた稲葉道通は、家康の指示を受けて領国に帰ったが、その途次に(九鬼方の)銃撃を受け、難を逃れたという[7]

玉城町三縁寺の稲葉家五輪塔群

東軍の富田信高(安濃津城主)・分部光嘉(伊勢上野城主)が安濃津城で籠城すると(安濃津城の戦い)、道通は岩出城から兵を出して九鬼嘉隆家臣の北庄蔵が守る中島砦を落とした[8]。こうしたことが功績とされ、戦後に2万石を加増されて伊勢田丸城を与えられ、4万5700石を領した[1][3]。これにより田丸藩が立藩した[3][5]

慶長12年(1607年)12月12日、伏見で死去[1]。享年38[3]

備考

脚注

参考文献

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