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牧村利貞

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名 From Wikipedia, the free encyclopedia

牧村 利貞(まきむら としさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。稲葉重通の子(娘婿とも)。利休七哲の一人に数えられる茶人であり、キリシタン大名でもある。伊勢国岩出(岩手)城主であったが、文禄の役で出陣した朝鮮において病没した。

生誕 天文14年(1545年)[1]?
別名 政治、政吉、高虎、秀光
長兵衛(通称)
概要 凡例牧村 利貞, 時代 ...
 
牧村 利貞
牧村利貞像(妙心寺雑華院蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年)[1]?
死没 文禄2年7月10日(1593年8月6日)
別名 政治、政吉、高虎、秀光
長兵衛(通称)
諡号 雑華院殿英運常雄大居士[2]
官位 従五位下兵部大輔
主君 織田信長→豊臣秀吉
氏族 稲葉氏→牧村氏
父母 父:稲葉重通、母:牧村政倫娘
養父:牧村政倫
兄弟 利貞、稲葉通重、稲葉道通 ほか
子 孫右衛門(牛之助)、祖心尼
特記
事項
本欄の系譜関係は『寛政譜』に基づくが、異説もある。本文参照。
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通称は長兵衛。兵部大輔に任じられたため「牧村兵部」の名でも知られる。諱については政吉[3]、政治(まさはる)[1]などとも伝わり、秀光[4]と署名した文書もある。

生涯

出自

『寛政重修諸家譜』[5]や『稲葉家譜』[2]によれば、稲葉重通(稲葉良通の庶長子)の長男として生まれ、外祖父である牧村政倫の跡を継いだ。

ただし、利貞は稲葉重通の実子ではなく娘婿との説もあり、その場合の出自についても、もともと牧村氏出身との説、斎藤氏出身との説がある[2]。『美濃国諸家系譜』[注釈 1]はこの人物を「牧村政吉」として記載し、牧村政倫の弟[注釈 2]で、稲葉重通の娘を娶ったとする[3]。妙心寺の塔頭・雑華院の史料である『雑華院略史』は、斎藤利賢と明智光秀妹の子で、稲葉重通の娘(報慈院)を娶ったと記す[6]。同史料によれば、斎藤利三は利貞の兄、雑華院の開祖である一宙東黙は利貞の弟である[3]。

初期の活動

父(別説に義父)の稲葉重通とともに、織田信長に従って活動した[7]。『信長公記』によれば、天正5年(1577年)には根来攻めに派遣され[7]、天正6年(1578年)の荒木村重攻めに際して高槻城在番衆の一人になっている[7]。

織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは400ないし500の軍勢を率いた[7]。 この天正12年(1584年)、高山右近の勧めを受けてキリシタンとなった。

伊勢における活動

天正13年(1585年)と推定される正月28日付の外宮長官松木貴彦の書状では、式年遷宮にかかる費用が稲葉勘右衛門尉(重通)・牧村長兵衛尉(利貞)宛てに報告されている[8]。遷宮をめぐっての内宮・外宮の争論(伊勢神宮遷宮前後相論)に関連して、6月28日付で稲葉勘右衛門尉(重通)が「重執」・牧村長兵衛尉(利貞)が「秀光」と署名した文書を出している[4]。この父子は豊臣政権の造営奉行として、伊勢神宮側との取次を担っていたと見られる[8]。稲葉重通・牧村利貞父子は伊勢神宮とのつながりから伊勢国で活動拠点を築いたとみられ、天正15年(1587年)の秀吉出陣に際しては、戦勝と武運長久の祈祷のための奏者として神宮に派遣されている[4]。

天正15年(1587年)、利貞は九州平定に参加した[7]。『寛政譜』によれば、稲葉重通は天正16年(1588年)に父・良通の遺領を継いで美濃清水城主になっているが[4](清水藩参照)、天正18年(1590年)頃に重通が伊勢田丸城に在城していたことを記す史料もあり[9]、美濃と伊勢にまたがって活動していたとみられる[10]。

天正18年(1590年)[1]、牧村利貞は伊勢岩出(岩手)城を与えられて2万石を領した[11](伊勢岩手藩参照)。

朝鮮における病死

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、石田三成・大谷吉継らとともに名護屋における船奉行となり渡海した。長岡忠興・長谷川秀一らと並び昌原の戦いでの戦功を秀吉から賞されている[12]。さらに1593年(文禄2年)3月の晋州城の戦いでは400人の包囲軍を率いたが、7月10日、朝鮮において病死した。利貞の享年について、『寛政譜』や『稲葉家譜』[2]に記載はない。49歳[1]、60歳(『美濃国諸家系譜』)[3]などの諸説がある。

実子の牛之助が幼少だったため[13]、秀吉の命で異母弟(別説では義弟)の稲葉道通に遺領が与えられた。文禄期には稲葉重通が検地奉行や伊勢神宮などの奏者を務めた文書が残っており、道通が年若く(『寛政譜』によれば20歳代)城主となって日が浅いために、重通が対外的な役割を果たしたと考えられる[14]。重通は慶長3年(1598年)に没した。

人物

茶人として

利休七哲の一人に数えられる[15]。天正6年(1578年)4月11日に妙覚寺で織田信忠が開いた茶会に津田宗及らとともに参加している[7]。

『天王寺屋会記』によれば、天正8年(1580年)正月14日に安土で茶会を開いた際に「ユガミ茶碗」を用いた[7]。これは古田織部による使用に先駆けるものとされる[11][7]。天正15年(1587年)の北野大茶湯にも参加している[7]。

キリシタンとして

1585年8月27日付のルイス・フロイス書簡によれば、「彼は万人に愛され、多くの武将たちの前で進んで自らがキリシタンであることを公言し、従前とは異なった生き方を示すことで(人々に)大いなる影響を与え」、「その助言と相まち、他の仲間たちに感化を及ぼして、すでに二名の貴人をキリシタンになるよう説得するに至った」という。また、家臣のうち幾人かにも洗札を受けさせることに成功し、全家臣をキリシタンにする決意を示したともされる[16]。

キリスト教の教義を実生活においても実践[注釈 3]し、キリシタンになることを他の者にも勧め、右近と一緒に蒲生氏郷を説得し、入信させることに成功した[17]。

系譜

利貞の出自をめぐる諸説については#出自説参照。

牧村氏

牧村氏は、もとは三河国の大河内氏の一族で、戦国期に美濃国安八郡牧村(現在の岐阜県安八郡安八町牧)に移って牧村城を拠点としたという[2]が、同時代史料は乏しい[2]。

『美濃国諸家系譜』によれば、三河国出身の大河内政忠が天文20年(1551年)に美濃国に移り、安八郡牧村の領主であった牧村利武(土佐守)を滅ぼして同地を支配するようになり、牧村強之助を称して稲葉良通に従ったという[2]。政忠の子が政倫[2]および「政吉」(=利貞)[3]である。

『寛政譜』編纂時の大河内忠栄(750石)の呈譜によれば、この家は大河内国綱[注釈 4]の次男・満澄(兵庫頭)に始まる家であるが、満澄の子である大河内元綱(左衛門佐)の次男として牧村政忠(源次郎、強之助)を掲げる(名字は三河国の「牧村」に由来するという)[20]。この家の呈譜では他に以下のように主張されている。

  • 元綱の長男・大河内重一(但馬守)のあと、この家は長男の綱重(因幡守)、その子の忠正(勘解由左衛門)と継承された[20]。大河内忠正は今川家、ついで武田家に仕えたが、高天神城の戦いののちに徳川家康に仕えた[20]。忠正の子孫が忠栄である。
  • 元綱は青木一宗(加賀守)の娘(華陽院)を養女としており、彼女ははじめ水野忠政、その死別後は松平清康に嫁いだ[20]。なお、『寛政譜』の水野家の譜でも忠政の継室が大河内元綱の養女であり、於大の方(徳川家康の母)らがその所生であると記されている[21]。
  • 重一の次男が、高天神城に長期抑留されていた逸話で知られる大河内政局(源三郎。政房とも[22])である[20]。

『寛政譜』編纂者の問い合わせに対して大河内家の本家にあたる大河内久雄は、自家の系図に国綱の次男は記されていないとして忠栄家との同族関係を否定したため[20]、『寛政譜』では忠栄家の祖先の系譜は参考情報として「低書」され、系図は大河内忠正から起こされている。

子女

『寛政譜』は、利貞に一男一女があったことを記す。

男子:牛之助

牧村利貞の息子は、牧村牛之助[13]の名で知られる。『寛政譜』の牧村家の譜は孫右衛門(幼名は兵丸)[23]、『藩翰譜』は長兵衛尉(幼名は与一)とする[24]。

『藩翰譜』によれば、長兵衛尉は稲葉家で養われたが、成長後に父の所領が返還されなかったことに不満を持って稲葉家を去り、父が親しかった縁で加賀藩の前田利長を頼った[24]。駿府城築城の際、長兵衛尉は加賀の人夫に立ち混ざって働いていたが、何者かによって刺殺されたとある[24]。『寛政譜』によれば、牧村孫右衛門は慶長12年(1607年)7月25日に駿府で殺害された[23]。

女子:祖心尼

娘の祖心尼(名は「のう」[25]「なあ」などと伝わる)は前田利長に養われ、その一族で重臣である前田直知に嫁ぎ[26]、離別ののち会津藩蒲生家家臣の町野幸和と再婚した。その後、親族である春日局(稲葉重通の養女)を頼って江戸城大奥に仕えた[25]。徳川家光の最初の側室であるお振の方(千代姫の生母)は、祖心尼の孫娘(町野幸和との間の娘が、岡吉右衛門(岡重政の子)に嫁いで儲けた娘)である。寛永20年(1643年)に春日局が没すると、大奥取締を務めた[25]。

徳川家光からは江戸郊外の牛込村などに300石の知行地を与えられた[26]。慶安4年(1651年)、家光の死を受けて祖心尼は剃髪し、牛込に済松寺を開いて知行地を寄進した[26]。幕府は、寄進した知行地に代わるものとして月俸として100人扶持を与えた[26]。延宝3年(1675年)に祖心尼が没すると、孫(前田直知との子である前田直成の子)で養子に迎えていた牧村直良が遺跡を継ぎ、蔵米500俵を給された[27]。以後、牧村家は旗本として系譜をつなぐ[注釈 5]。

備考

  • 江戸時代に大和国今井町(現在の奈良県橿原市今井町)の豪商であった牧村家は、利貞の末裔と伝える。利貞の孫が今井町に移住して代々材木商を営んだといい、幕末期の牧村清右衛門は福井藩の蔵元を務めた[28]。
  • 美濃国大野郡西方村(現在の岐阜県揖斐郡大野町大字西方)で庄屋を務めていた牧村家は[29]、利貞の流れを汲むと伝える[30]。家伝によれば、3代当主・牧村利貞が没したあとに一時後継者を失ったが、「縁者」である清水城主・稲葉重通が子の「愛通」に名跡を継がせて7代当主とし[注釈 6]、「牧村兵庫頭利定」と名乗らせた[30]。利定は野村藩主織田長孝に仕えたが、寛永8年(1631年)に織田家が絶えた後に西方村に閑居したのであるという[30]。18世紀前半に建てられた[29](伝承によれば元禄14年(1701年)頃に10代当主・牧村利隆が建てた[30])牧村家住宅は、国の重要文化財に指定されている[30][29]。

脚注

参考文献

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