立花統次
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天正4年(1576年)、森下釣雲の三男[3]として生まれる。天正18年(1590年)、立花統春が27歳の若さで自害し、その名跡を継ぐ。文禄・慶長の役で、露梁海戦に明の軍船数隻を捕獲した[4]などの戦功を挙げ[5][6]、文禄5年(1596年)に1000石を拝領した[7]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、主君・立花宗茂の母衣武者十一騎の一人[8][9]として出陣、大津城の戦いに参戦した[6][10]。
後の江上八院の戦いに、立花家老小野鎮幸の指揮下で第三陣の将として兵を率い、単騎駆けして敵数陣を突破し、獅子奮迅の奮戦ぶりを「阿修羅のごとく」と讃えられたが、騎乗する軍馬の体力を消耗しすぎたので、重囲に陥て討死する[注 1][11][12][13][14][15]。
人物
死後
戦死の地には地元の民によって「三太夫地蔵」として祀られている。 三太夫地蔵の周辺の村では、近年まで立花三太夫の霊を鎮めるため、毎年夏の8月になると「立花さん祭り」が催されていた。 今でも付近ではその地蔵は「立花さん」と言われて、地元の人びとに親しまれている[19]。